東京人の感性

大村彦次郎

 東京の人間に共通した気質とでもいうものがあるとしたら、それはどんなものだろう。
 日本橋生まれの谷崎潤一郎は自分の父親を代表とする江戸っ子の特徴として、礼儀正しいこと、実直であること、金銭に淡泊であること、もう一つ見栄坊であることを挙げた。この父は江戸っ子だけが売り物のようなお人好しで、商売人としては損ばかりしていた。世間いうところの江戸っ子というより、そのなれの果て、といったほうが当たっている。
 彼らが共有するものは東京コトバと食べ物の嗜好と祭礼や芸能への関心である。神田生まれの小林秀雄はきれいな東京弁を使った。「きれいな発音ですね」と他人が褒めると、「私ども世代はもうだめです。久保田万太郎さんまでですよ」と言った。明治二十二年浅草生まれの万太郎は小林よりひと回りほど年上だった。東京弁が亡びると同時に、旧東京人も姿を消した。
 いまさら東京人の感性やら気質やらを抽出し、ひと括りにして、定義することなどは不可能である。マス・メディアの発達した今日、東京ばかりでなく、全国どこへ行っても、地域的なパーソナリティなどというものは、類型を除けば、とうの昔に失われた。人国記が書けなくなったゆえんである。
 ところが、文壇というのは面白いところで、個性を売り物にする作家の中には、ときにみずからの出生に固執し、郷土性を誇る純血種が出ることもある。たとえば、東京生まれなら、山口瞳。
 山口さんにはある種の禁欲的な道徳律と感受性があって、とりわけ〈田舎モノは嫌いだ〉という感覚がつよかった。それは都会人の優越感というより、無神経な人間の図々しさに対する嫌悪感であったが、当然、人によっては、しばしば誤解されるモトになった。
『文藝春秋』誌上の司馬遼太郎対談では、ハナから関西人を田舎モノときめつけて臨んだから、良識派の司馬さんはヘキエキし、山口さんを〈命がけの僻論家〉と呼んだ。司馬対談集は何冊もあるが、このときの彼との対談はひょっとすると外されていたのではなかったか。その偏論強情ぶりを窺うには面白いのだが……。そもそもの関西嫌いには、若い日勤務した、関西に本社のある洋酒メーカーの職場環境が影響していたのではないか、と私は思っている。
 まあ、山口さんの場合は極端な例かもしれないが、それでも私の接した東京育ちの作家それぞれに思いをめぐらせると、その気質や性癖に、どこか共通したところがないわけでもなかった。その一つに、時間にキチョウメン、ということが挙げられる。山口瞳はもとより、永井龍男、戸板康二、池波正太郎、吉行淳之介、吉村昭、結城昌治——、みんなが時間には律義な性分を見せた。
 池波さんは交通渋滞でクルマが遅れたときなど、真っ赤な顔をし、息を切らせながら、約束の場所へ現われた。いまどきのクルマの渋滞など、織り込み済みにしておけ、と日頃言っている手前もあった。吉行さんもしきりに懐中時計を取り出しては目をやった。時間に厳格である、というより、相手を待たせるのが気になった。そうでなくても、人一倍気が回り過ぎた。精神のバランスを神経質なくらいに保った。〈鈍感力〉とは、およそ隔たりがあった。
 待ち合わせの時間に気をつかうぐらいだから、誰もが原稿の締切はキッチリと守った。腕のいい職人が約束の納期に間に合わせるようなおもむきがあった。池波さんが夫人に向かって、「お前さんは、職人の妻のような気分でいたらいい」と伝えたのは、昔の東京の人間というより、お店(たな)出入りの職人の気質を表わしていたのではないだろうか。

(おおむら・ひこじろう 元編集者)

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