ドン・キホーテ状況になっている小説

清水義範

 Kさん。Kさんは私に何かたくらみの大きな、力の入った小説を書いてほしいのだとおっしゃったのですよね。そして、たとえば人間はなぜ宗教を持ち、宗教とどうつきあってきたのか、なんてことを小説にすることはできないでしょうかと提案なさった。
 だが私は、そのテーマでは既に長編小説をひとつ書いているんです、と答えました。四十代の頃に書いたものなので、若書きで未熟なところもある小説かもしれないが、似たようなものをもう一度書くのも気が進みません、と。
 そして私はこういうプランを出しました。Kさんの言う宗教を、小説にしてみたいんですが、と。つまり、人間はなぜ小説を持ち、小説とどうつきあってきたのかということを小説にしてみたい、というプランです。
 用語にはあまりこだわらないでいきたいと思います。ここで小説と言っているもののことを、文学と呼んでも問題はあまりないと思いますが、間口を広げすぎてもやりたいことが漠然としてしまいます。人間はどのように小説を持ち、小説とどうつきあっているか、ぐらいの切り口にしておくほうが、具体的でよかろうと考えました。  Kさんにそういう提案をした時、私は、その小説は『ドン・キホーテ』的にならざるを得ないだろうな、と思っていました。なぜなら、『ドン・キホーテ』というのは、ある種の小説を蹴散らすために書かれた、小説のパロディだという、偉大なるワン・アイデア小説だからです。しかもその上、願ってもない偽続編が出たおかげで、その続編では、自分自身をもパロってしまうという究極の突き抜け方ができた小説でもあります。つまりあの小説は、小説は何だって多かれ少なかれパロディ的であるということの、パロディなのです。
 だから私が書くべき小説は、とりあえずは『ドン・キホーテ』のパロディとして始まることになります。主人公は当然のことながら自分なりの『ドン・キホーテ』を書きたいともくろんでいる小説家になります。はたしてその小説家にそういう小説が書けるだろうか、というサスペンス小説の感じです。
 だが、それだけで終る小説であってはつまらない、と私は考えていました。それだけだったら、『ドン・キホーテ』のパロディのひとつにしかなりません。
 私が書きたいのは、『ドン・キホーテ』という小説がある、ということのパロディなんですから。人間の文化遺産にこんなものもある、ということを喜びたいのですから、単にもうひとつの『ドン・キホーテ』が書けても意味がないのです。
 Kさんはこの小説の連載中によく、これはどこまで行くんでしょうか、とか、ますますへんなことになってきましたね、とおっしゃっていましたね。そう言われて私は、いいぞ順調だぞ、と思うことができました。なぜなら、私は、小説があるってことをパロディにしたいのであって、主人公の成功はどうでもいいからです。つまり私は、最後にこの主人公が、小説というものにとってのドン・キホーテになったら、この小説は完結すると考えていたんです。
 そういうわけで、私が書いた『ドン・キホーテの末裔』という小説は、小説ではあるのだけれど小説であることをぶっ壊そうとするものです。そして、人間って小説を持っているのだなあ、ということを笑いのめす小説でもあります。はたまた、人間に小説があるってことを寿(ことほ)ぐ小説でもあります。
 この小説の全体の構造は、ドン・キホーテ的状況になっています。つまり、狙いの筋において既に、小説を読みすぎて少し考えがヘンになっているわけです。そのねじれを、なんとか隠して、建設的空中分解にまで読者を導いてしまおう、という小説でした。書いていてとても楽しかったです。
 Kさんにはお世話になり、感謝しています。

(しみず・よしのり 作家)

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ドン・キホーテの末裔

清水 義範 著

定価1,890円(税込)