「おもろく」なければ学問でない

鷲田清一

 正直なところ、わたしは、「京都学派」を代表する西田幾多郎という哲学者の書き物、とくにその書きぶりになかなかなじめない。悲劇的なまでに「深い」かもしれないが、喜劇的なまでに「軽い」可能性もあるようにもおもう。ただ、西田が「哲学者」として哲学の可能性をつきつめていったその過程に、同時代の物理学者たちが、経済学者たちが、生物学者たちが、過敏かとおもわれるくらいに共振した、その、ディシプリンの枠を超えたみずみずしい関係には、すこぶる惹かれる。
 日高さんの『動物と人間の世界認識』は、「世界」という、どの学問領域に属するか分からないような、しかし哲学者にはお気に入りの問題を真正面から取り扱っている。日高さんは言及していないが、ここで問題とされている「世界」の問題は、二十世紀の哲学、なかでもヴィトゲンシュタインの「哲学探究」や、フッサールやハイデッガーの現象学、ガーダマー、リクールらの解釈学的哲学と、同じ問題に照準を合わせている。世界が「世界」として現出するときの、その媒体、その条件に着目するところである。若書きとしか言えないわたし自身の修士論文についでにふれさせていただければ、それは「世界」とは何か、「世界」なるものの成立要件とは何かを論じたものだった。
 日高さんは言うまでもなく、その「世界」を、生物学のもっともベーシックな次元で問題にしている。モンシロチョウと人間が感受している世界、コウモリと人間が感受している世界は、そもそもが違う。紫外線、赤外線、超音波……。他の動物は、人間にはまったく感知できないそれらのものを手だてとして、それぞれの仕方で世界を精密に感知している。だとすれば、いろいろな生き物がともにそこに住まっている同じ「世界」などというものがほんとうに存在するのか、それじたいが問題となってくる。さまざまな動物の知覚の体制はそれぞれに異なるとして、その前提となる一つの「世界」というものがそもそも存在するのか、という問題である。
 この問題をつきつめれば、人間という種においてすら、一つの「世界」がほんとうに成り立っているのかも問題とならざるをえない。たとえばわたしが木の葉を見て、きれいな緑だなあと感嘆したとする。そしてそこに居合わせた仲間も、同じように、きれいな緑だなあと感じ入っているとする。けれども、わたしが「緑」として了解している色と、他人が同じく「緑」として了解している色とが、ほんとうに同じ色なのかどうかということについてはなんの保証もない。「ミドリ」という言葉が一致しているだけのことで、じつのところ、他人が「緑」として見ているものは、ひょっとしたらわたしが「黄」として見ているものかもしれない。両者がそれぞれに「緑」として見ているものが同じものであることを確認する手だてはないのである。なのに、「世界」は一つと、だれもがおもっている。なぜか? これこそ、ヴィトゲンシュタインが問い、現象学や解釈学が問題にしたことであった。
 それらの哲学の思考と同じ水準で、日高さんは、「世界」の条件を問題にしている。客観的な事実かそれとも幻像ないしは錯覚かという二分法に先立つ、「イリュージョン」としての世界のあり方への問いである。それぞれの生き物に世界が「世界」として現われてくるときのその条件、たとえば「知覚の枠」という条件、「意味」あるものの抽出という条件がまず論じられ、それらを超えて「世界」を論理的に構築してゆく、いいかえると「歴史」というものをもつ人間の認識の特性が論じられる。人間のばあい、文化が滅びるとなぜ世界そのものが壊れることになるのか、と。
 そして最後に言う。人間とは、「新しいイリュージョンを得ること」「新しい世界が開けること」を愉しむ摩訶不思議な存在だと。「固苦しい美学や経済に囚われない世界」を構築できる喜び、それをぬきにして学問はありえない、と。
 なんともすがすがしい結語である。

(わしだ・きよかず 大阪大学総長)

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