ウソがなくて

谷川俊太郎

「文は人なり」ということわざがあります。書かれた文章に書いた人の人となりが現れる、という意味だと思いますが、これは文豪と呼ばれるような偉い人の文章について言う言葉だとばかり私は思っていました。ところが華恵さんの文章を読んでいると、しきりにこのことわざが心に浮かぶのです。文章の向こうに華恵さんという人間が透けて見えると言えばいいのか、つまり言葉と華恵さんのあいだに不純物が何もないという感じ。
「文は人なり」という場合の文は、筆者が感じたこと、考えたことの内容だけを指しているわけではないと思います。どんなに立派な考えが書いてあっても、筆者に品がないと感じてしまう文章があります。どんなに美しい言葉が並んでいても、筆者がまるでロボットとしか思えない文章もあります。文というのは意味だけで成り立っているのではないということを、私たちはそれと意識せずに知っているのではないでしょうか。
 文章には心だけでなく体もあって「文体」という言葉があるのはそのためでしょう。「文は人なり」の元はフランスの博物学者ビュフォンの演説にあるらしいのですが、フランス語の原文では「文」はスチル(スタイル)、つまり文体を指しています。日本語になったスタイルは、あの人はスタイルがいいというように、もっぱら姿かたちを言う言葉ですが、日本でも普通に使われている「ライフスタイル」になると、大分ニュアンスが違います。
 華恵さんの文章の魅力はまずその文体にあるのではないかと私は思います。でもその文体の何がいいのかを説明するのはとても難しい。華恵さんが書いているさまざまな日々の出来事、それに対する華恵さんの感じ方、考え方、動き方もとても面白いのですが、十五歳の華恵さんは言ってみればまだ人生のビギナーです。六十年も先に生まれた私にとっては、華恵さんがいま経験していることは、ほとんど経験済みのはずです。それなのにどうしてこんなにわくわくしながら読んでしまうのか。
 総合学習の映画鑑賞ではじめのうちうるさい生徒に注意していた先生が、すぐ生徒をほったらかして映画に没頭して涙を流しながら観ていたことを書いたあとで「こういうのって、ちょっといいな、と思います。ウソがなくて。」と華恵さんは書いています。その「ウソがなくて」という一言がこの本のおへそのように私には感じられました。華恵さんの文章は「ウソがない」文章なのです。そして真実はいつだって人をわくわくさせるのです。
 これは書かれていることが事実に即していて虚構ではない、ということとは違います。書かれていることつまり言葉になった表現の源にある華恵さんの現実の生き方に、背伸びや気取りや人まねやごまかしがない、それが文章に反映しているということです。もしかするとこう言ってもいいのかもしれません。華恵さんの文体(スタイル)は、華恵さんのライフスタイルそのものから生まれていると。自分が十五歳のころどんな文章を書いていたかよく覚えていませんが、私が華恵さんのように正直で開かれた文体を持ててはいなかったことは確かです。
 若いころの文章って気づかずにモノローグになっていることが多い。他人に伝えようとしていても、どこかで自分のことを訴えているだけの文体になってしまう。華恵さんの文体はモノローグの文体ではありません。ちゃんと適正な距離をおいて読者に向かって語りかけています。読んでいて私はときどき「ほんとだ」とか「でもさ」とか心の中で呟いていました。そんなふうに対話を誘う文体なのですが、一方で華恵さんは「大切なのは、やっぱり『ひとりの時間』です。」と言っています。自分と他人とのあいだを生きるのが人間だとしたら、華恵さんは読者を含めて身内も含めて、他人と向かい合うときに、ひとりの自分を見失っていないのだと思います。
 華恵さんの書く本は、一人の女性の成熟のリアルタイム記録としての一面をもっています。華恵さん、大人になってもウソに負けずに生きて書いてくださいね。

(たにかわ しゅんたろう 詩人)

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