白眉の串田孫一論

清水哲男

 本書は音楽を「着手点」に、萩原朔太郎、北原白秋、宮沢賢治などの詩の世界を読み解いている。といっても、堅苦しい論考集ではない。著者個人の音楽的回想を随所にまじえながら、楽しんで書いている。その雰囲気が、まずは心地よい。
 どの詩人についての文章にも、なるほどと納得させられたが、なかでも白眉は串田孫一に関する三章だろう。これまでに私は、これほどこの詩人の本質的なありように触れた文章を読んだことがない。いや、そもそも串田は著名な詩人ではあったのだけれど、まともに論じられることのない不思議な存在であった。
 亡くなったときにも、現代詩関連の専門誌は小さな特集すら組まなかったと記憶している。だからおそらくこの三章は、本邦初のまともな串田論と言ってよいのではなかろうか。
 詩の書き手のはしくれとしての私にしてからが、正直言って串田の詩は苦手であった。本書にも出てくるように、詩人は長い間、FM東京の詩の朗読番組(毎週日曜日朝放送「音楽の絵本」)を担当していた。ちょうどその一時期に、私も朝の生番組を持っていて、スタジオ録音に訪れてくる詩人との知遇を得たのだが、ただの一度も詩の話はしたことがなかったと思う。この大先輩に、私は詩のことをどう切りだせばよいのかがわからなかったからである。つまり、串田詩に対する「着手点」を見出しかねていたのだった。詩人がラジオのために書いた詩は、たとえば次のようなものである。タイトルは「白詰草」、書き出しの四行を引く。
 
 この白詰草を踏んで
 向うの小川まで行こうか
 それならせめて
 素足にならなければ

 わかりやすい言葉、わかりやすい情景、そしてわかりやすい自然への想い。しかし、それだけに私には逆に、なぜわざわざ詩人はこのようなことを書くのか、書く必然性があるのかが解せなかった。巧みな詩ではあっても、全体としてどこかに「ゆるみ」を感じる。生意気なことを言えば、現代人としての生活感覚や緊張感からは、はるかにかけ離れた世界しか書かれていないと思っていたのである。
 しかし、それがとんでもない浅薄な読み方であったことを、この本が教えてくれることになった。大げさではなく、目から鱗が落ちたと感じた。それこそこの「ゆるみ」(「ゆるやかさ」)こそが、串田詩の音楽性に照らして欠かせない重要な属性であることを、著者は正確に突き止めている。
「……音楽の創造活動ではなく、それを享受するはたらき、つまり楽しみに聞く、気楽に聞き流すときの受動性は、積極的で苛烈な音楽の創造活動とは、テンションの距りの大きさという点で、他のあらゆる分野以上のものがあり、そのことが逆に音楽を音楽たらしめている、これが私の見方なのだ。/どんな受動性にももちこたえられるようなゆるやかさ、脱力的な感じ、それが串田孫一の「音楽詩」や「朗読詩」の特徴だった。「受動」という、一見してはマイナスの価値をも何か自然に取りこみながら、言葉が、文章が、とぎれることなく流れていた。この流れていたものこそ、串田孫一的な音楽である」。
 そうだったのか。串田の詩は音楽だったのか。まさに「そうだったのだ」と、私は何度も頷いていた。さらに著者は、串田の「音楽詩」の持つ若干の弛緩性について、畳みかけるようにこうも言っている。
「しかし弛緩、凡庸だから駄目と単純にはいえないのだ。無限の言葉の多産性は何かゆるさが許容されうる分野でのみ可能なもので、この無限の持続、ゆるさという特性は音楽に縁がある」。
 これも卓抜な発見だ。本書の魅力はこのように、きばらない文章の随所に、あっという音楽的な発見がちりばめられているところにある。もとよりそれらは、著者の音楽への愛情と造詣の深さによるものであることは言うまでもないだろう。

(しみず・てつお 詩人)

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音楽が聞える ─詩人たちの楽興のとき

高橋 英夫 著

定価:2,625円(税込)