忠臣蔵嫌いのための『忠臣蔵』

氏家幹人

 江戸時代の史料と関わってもう三十年以上になるが、「忠臣蔵」とは縁が薄い。著書や論文で「忠臣蔵」を論じたおぼえはないし、赤穂事件に関する雑文も、たぶん書いてない。
 幼少時から現在まで、映画やTVの時代劇そして歌舞伎で何度もその世界に接しているのに、どうしたわけか大石らの行動に感嘆も共感もせず、研究意欲もそそられなかった。
 理由は二つ。すでに福本日南『元禄快挙録』などの大著があって、いまさら画期的な研究の余地などありゃしないと思われたため。それにもまして、江戸以来の義士顕彰の風潮が鼻についていたからだ。大学院時代に元禄前後の或る江戸藩邸記録に没頭した私は、元禄の江戸で数十人が武家屋敷に夜討ちをかける行為がいかに狂気の沙汰かを、たぶん当事者の浪士たち以上に認識していた。「ありえない。所詮時代遅れの暴発事件さ」。敵討ちのためとはいえ、罪もない吉良邸の者が多数殺傷された結果にも義憤を感じていた。
 虚構で彩られた「忠臣蔵」と史実としての赤穂事件の双方に目配りしながら、浪士とその家族ばかりか幕府や藩の人間関係を整理する作業なんて(しかも先人の手垢で真っ黒になったテーマじゃないか)真っ平御免。だから一九九四年に野口武彦著『忠臣蔵』が出版され話題になっても、パラパラめくっただけで書棚のすみに放っておいた。いつか必要なときに読めばいい資料本の一つとして。  
 それから十三年。縁あって同書をじっくり読んだ私は、その面白さに感嘆した。読者を飽きさせず事件の経緯をたどるスピード感あふれる叙述。史料にこだわりながら“文字”に埋没せず、時代背景や記録者の人間性まで的確にコメントする卓越した歴史的センス等々……。
 赤穂事件を「義士」「不義士」の二分法で論じるのを「じつにくだらない先入観」と切り捨てた著者が、天真爛漫な武士道賛美と無縁であることは言うまでもない。義士でも武士道でもなく、事件の主役は元禄という時代そのもの。著者は言う。事件のハイライト・シーンは吉良邸討入りではなく、翌日深夜、吉良上野介の実子が藩主だった上杉家が、愛宕下の仙石邸から身柄預かりの大名四家に移動しようとする浪士たちに復讐の襲撃を仕掛けなかった(つまりなにも起きなかった)場面だったと。「上杉家ついに動かず。それを責めているのではない。(中略)ただ、この夜まちがいなく、一つの時代が終焉したのである」。
 当時、江戸の武士社会はすでに「管理社会」化し、優柔不断な事なかれ主義が支配していた。だからこそ幕府や藩の「官僚的常識を越えた」赤穂一党の行動は、その虚を突いて成功したと著者は指摘する。今日の日本にも通じる組織の問題点が、吉良邸討入りの背景に顕著に見られるというのだ。
 義士顕彰の説教臭さもウェットな人情話もないドライな事件史としての忠臣蔵。著者は最後に、「武士がやむにやまれぬ信念の貫徹のために武力行使に及ぶという道義は、偶発的なもの、発作的なものは別として、その後ずっと百五十八年もの間、完全に地を払ってなくなった」と、その後を展望している。百五十八年後、万延元年(一八六〇)に起きたのは、桜田門外の変にほかならない。赤穂浪士たちが劇的に発散させた情念が、幕末によみがえったというのである。
 元禄と幕末。そういえば、最近目にした幕末の狂歌集『狂歌忠臣蔵』に、「おのが名の義をば守りて妻や子に こゝろみださぬをとこたましひ」の一首を見つけた。ほかに「げにほめぬべき男たましひ」の下の句を持つ一首も。オトコダマシイ=男魂。赤穂浪士の心根に「男魂」を見た感性に、幕末という時代の空気が感じられた。赤穂浪士は、遅れてきた武士であると同時に、幕末志士の早過ぎた魁(さきがけ)だったのかもしれない。

(うじいえ・みきと 歴史学者)

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忠臣蔵 ─赤穂事件・史実の肉声

野口 武彦 著

定価:945円(税込)