『仕事と日本人』の執筆を終えて

武田晴人

 働き方とか、働く意味とかが盛んに議論されている。『働きマン』という漫画が読まれ、テレビドラマ化もされた。「ニート」や「フリーター」という言葉が普通の言葉になってから久しい。この主題に関連した書物はとても読みきれないほどたくさん出版されている。そんな百家争鳴状態に、ほかに何か付け加えることがあるのか、という疑問もあった。
 それでも書いてみようと思い立ったのは、日本の産業や企業の歴史を勉強してきたなかで、「労働」という言葉がいつも気になっていたからだ。私の専門は経済史という研究分野に属し、そこでは、経済学のいろいろな概念を利用しながら、歴史の事象を分析する。「労働」も大事な分析概念だ。ただ、ふと立ち止まって考えてみると、経済学の歴史自体はせいぜい三〇〇年もない。経済学がない時代に、人は働くことをどのように考えていたのだろう。
 そんなことから調べていくと、予想以上にいろいろな新しい発見があった。その面白さを伝えるためにまとめたのが、この表題の書物になる。
 詳しくは読んでいただく以外にはないが、「労働」という日本語は、明治以前には使われていない。近代になって新しく作られた言葉だった。
 働くことは、もともとは、自分やその家族、あるいは近所の仲間たちが生きていくために必要なことを、共同で、あるいは分担して行うことだった。誰かに命じられてやむを得ずやるわけではなかった。そこでは、それぞれが役割を果たすことが重要だった。お金のために働く、という形式や考え方は、近代社会以後になって育ってくる考え方に過ぎない。つまり、人間の歴史の中では、ごく最近成立したものだということがわかる。
 言葉が変わるということは気をつけないと忘れてしまう。言葉が生まれる現実があって、その現実は時代の産物だから、時代が変われば言葉も変わる。だから、固定観念に囚われないで、こだわりを捨てて考える必要がある。「労働」の探究はそれを教えてくれる。歴史を研究する人たちは、毎日の研究のなかで、そうした訓練を続けている。資料に書かれている言葉が表している事柄が、どんな状態や考え方を示しているのかは、現代用語辞典を引いてもわからない。それでも、そんな当たり前のことを忘れてしまって、大きな間違いをすることもある。
「労働」という言葉を調べていて、私自身がそれを痛感した。お金を得るために働くということは絶対的で不変の前提ではない。だとすれば、今問題になっているニートやフリーターの問題ももっと違った角度から見ることができるに違いない。もしかすると、彼らは新しい時代の新しい芽がどこに生まれつつあるかを教えてくれるのかもしれない。
 歴史家は「未来を語らない」「語るべきでない」という意見がある。一般的には私もそう考えているし、本書で試みられている「仕事」にかかわる問題の検討も、それ自体としては、古いことの詮索である。私もその意味では則を越えず、禁欲的でありたいと思う。
 それでも、現代社会の中で、働くことの入り口で戸惑っている若者たちや、自分らしさを表現できる仕事を探している彼や彼女たちを見ていると、つい声をかけたくなる。「お金」が働くことの本来の目的ではないと考えてみたらどうですか、と。当たり前だと思っていることが、当たり前ではないということを。
 そうした呼びかけを通して、働き方を少しずつ変えていくことができないか、そんな問いかけが本書のテーマの根底にある。変えることが可能なことを示すために、歴史的な資料を探訪することで、これまで、こびりついていることに気が付かずにいる固定観念の垢を落とし、働くことが持つ人間本来の皮膚感覚に触れてみる必要がある。だから、視線はあくまで未来に投げかけられている。

(たけだ・はるひと 東京大学教授)

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