手つかずの大海を夢見て

茂木健一郎

 人間を夢中にさせるものはたくさんある。折々の社会の中で、人々の脳を虜にし、時の流れを忘れさせるものが必ず存在する。そのようなものに心を奪われ、あれこれと過ごしているうちにふと気づくと歳月が経ってしまっている。めまぐるしい変化の中で、現代人は、自分が生きていることの不条理に目を向けずとも日々を重ねることができるようになった。
 何と多くのものが私たちを眩惑することか。たとえば、インターネット。多くの人々の前に今まで考えてもみなかったような世界を提示し、社会のさまざまな仕組みを根底から考え直すきっかけを作った新しいメディア。私自身もネットに夢中である。ウェブの可能性についての本まで出した。新しい動きには、まずは感染してみるのがよい。そうでないと、現代に向き合うことができない。
 一方で、目先の変化に没入し、時を忘れすぎると見失ってしまうことがある。そもそもこの世界はどのように成り立っているのかという根本的な問題。生きるとはどういうことか、意識を持つのは何故かといった深い謎を探究すること。私たちの生命の芯を串刺しするやっかいな問題は、インターネットのような新しいメディアが出てきてもそれだけで解決するというわけではない。むしろ、情報のやりとりに熱を上げているうちに本質から目くらましされる可能性もある。
 目端の利く者が走り続ける「ドッグイヤー」の時代の中でも、古来一向に変わらぬ人間の問題はある。本質から目を逸らさぬためには、いったんは時代から離れてみるしかない。人間精神の名誉に属すること。それなしでは人間が人間ではなくなってしまう一大事。そんなものたちに向き合うために、時には沈潜しなければならない。
 このたび刊行の運びとなった『思考の補助線』は、二年間にわたる「ちくま」の連載をまとめたものである。舞台が大きく回るかに見える世の中。時代が変わってもそう簡単には流行り廃りはしない根本問題について考えたいと思った。私自身も、人生の半ばにさしかかって、何だかやたらに忙しい。飛んでくる球を打ち返すのに随分な時間をとられる。一方で、ものごころついてから片時も忘れられぬ問題がある。私たちの日常の消息を一度は離れて、自分自身の魂の奥底にあるやっかいなものを見つめてみよう。そんな気持ちが先行する。
「内容が尖がりすぎていて、あまり売れない本を作りましょうよ」。連載を前にして担当の編集者が吐いた言葉が、自分のなかで温めていた気分に共鳴した。中世の修道院に立て籠もるような、そんな気持ちで連載を書いてみようと思った。難しい幾何学の問題が、たった一本の「補助線」を引くことによって一気に見え方が変わり、解決してしまう。そんな風に、一見関係のないものたちの間に「補助線」を引くことで、世界の見え方を変えたいと思った。そのためには、現代というものからいったん離れて沈思しなければならないと考えた。
 実際に書き始めると不思議なことが起こった。私の思考は、むしろ現代の私たちにとって同時進行的なさまざまな問題へと波及していったのである。結果として、修道院に立て籠もるというよりは、現代の空気の味をききながら、その中でも変わらぬ人間の諸問題について考えるという作業となった。
 日常との距離は難しい。同時代を倦む気分は時にして生命力の衰えだから、気をつけなくてはならない。その一方で、時代の真っ直中に身も心もゆだねてしまうと、後々ふり返って、あの頃は何だったのかと呆然とすることになりかねない。青春の豊饒は美しいが、人類の思想を深化させるのは「地下室の手記」の中の一行かもしれない。
 ものを書くとは、深海に潜む真珠を光に満ちた海面まで運ぶような作業だとずっと信じてきた。魂の芯までもが現代の「実際」に串刺しされたとしても、手つかずの知の大海をなお夢見ずにはいられない。

(もぎ・けんいちろう 脳科学者)

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