「加害者」という言葉の魔術

芹沢一也

『加害者は変われるか?』、一見、シンプルな内容の本に思われるかもしれない。加害者といえば、何らかのかたちで他人に危害を加えた存在だし、それが変われるのかというのだから、どうすればそうした加害行為を反省させて、善良な人間にすることができるのかということかと、タイトルから連想してしまうかもしれない。だが本書はもっと複雑で、それでいながらもっとリアルな本なのだ。加害者の問題など自分にはまったく無縁だ。いわゆる「普通の人」のこうした思い込みは、本書を読めば根底から覆されることだろう。
 ポイントは「加害者」という言葉にある。この言葉は本書では、ふたつの異なったかたちで用いられている。ふたつの目に見えない事柄をあぶりだすためにだ。一方では、加害者と名指すことで、見えなくなってしまう重要な視角が指摘される。他方ではまったく反対に、加害者とはっきり名指さなければ、見えない関係性が明るみに出される。前者からみてみよう。
 いわゆる凶悪犯罪を知ったとき、ひとは、あるいは社会はどう反応するだろうか。新聞やテレビ、雑誌をみれば明らかだろう。たとえば二〇〇六年に秋田県で起きた豪憲君殺害事件。無垢な子どもを殺害した極悪非道な女として、激しいバッシングがなされたことは記憶に新しい。加害者に向けられるとめどない社会の憎悪。自分たちの日常とはまったく無関係な存在として、ひとが正義を振りかざしてその悪を批判できる、加害者という言葉はそうした行為を可能にする言葉なのだ。とはいえ、こういったからといって、罪を憎んでひとを憎まずといったような話をしているのではない。ここでいわれているのは、もっとリアルなことだ。
 加害者という言葉は、そこに憎悪を向ける以外の想像力を枯渇させてしまう。本書は指摘する。もしかしたら娘の殺害は虐待死だったかもしれない。そうだとしたら児童相談所などの専門機関が機能しなかったことこそが問題なのだと。加害者=悪という等式をふり払ったとき、自分たちとは無縁の極悪非道な女が起こした凶悪犯罪から、児童虐待という多くのひとにとって身近な出来事へと、事件をめぐる想像力が変容する。わたしたちが事件から何らかの社会的教訓を得ようと思うのならば、こうした想像力こそが必要なのではないだろうか。そうすれば、たんに加害者をバッシングして溜飲を下げるという不毛な振る舞いから、虐待を防ぐために行政や専門家のネットワークを整備するという建設的な議論へ、わたしたちは進むことができるはずだ。
 そして、本書の主題である虐待やDV。ここではまったく反対に、加害者という言葉を使うことこそが、真に問題を把握するための視角を提供する。DVや虐待が起こる場所、すなわち家族という密室での暴力。これまではしつけや夫婦喧嘩といった言葉によって正当化されてきた暴力を、はっきりと「暴力」としてとらえるためには、「親が子どもの、夫が妻の加害者になりうること」を認めることが必要なのだ。そして、親や夫を加害者と名指すことによってはじめて、そのような加害行為をコントロールするという実践的な課題に取り組むことができる。はたして、「加害者は変われるか?」。
 具体的なケースについては、本書で読んでいただきたい。カウンセラーとして数多のケースに立ち会った筆者による描写は、善と悪というかたちに単純には割り切れない、複雑な関係のあり方を浮かび上がらせる。だが、問題をあいまいにしようというのではない。それどころか、そこにあるのは一貫して徹底したリアリズムである。それはたとえば次のような言葉からも明らかだろう。「いたずらに美しい家族、温かい家族を称揚することの意味はどこにあるのだろう」。本書では「親の心構えや愛情不足」などといった、言葉だけのお題目が振り回されることは一切ない。家族のなかでもっとも弱い存在である子ども、そして女性が、安心して暮らすために何ができるのか、あるいは何をしなければならないのか、本書で問われているのはただこの一点のみである。
(せりざわ・かずや 社会学者)

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