正論? いいから黙れよ。

石川忠司

 今回出版された『衆生の倫理』は正真正銘のトンデモ本にほかならない。何しろそこで主張されているのは、「現代社会を生きる衆生(大衆)は道徳的・倫理的に言ってまったくのダメ人間、すなわち乾坤一擲の倫理的な決断がどうしてもできないのだが、彼ら(彼女ら)の『ダメ』さが実はかえって道徳的・倫理的な可能性に通じている」という内容なのだから。
 それにしても何でまたこんなまだるっこしいロジックや表現を使わねば要約できないことを書いたのか? 少々過剰に歌舞伎すぎではないか? 素直に「現代の大衆は道徳的・倫理的にまだまだ期待できる」とでもすっきりまとめられる方向で、全体の論旨をまとめればよかったではないか?——そう思われた方のために言っておこう。「大衆への信頼を失ってはいけない」?
「大衆は愚かではない」? なるほど正論だ。しかしこの世でそんな「正論」くらいクソの役にも立たぬものは存在しないのである。
 例えば「お前の人生の目標は何か」と問われるならば「男らしく生きることだ」と答える。人様には優しく、仁義を守り、無闇に仮想敵をつくらず、責任感をもって生きる。そういう人間にできれば自分はなりたい。ではなぜ「人間らしく」ではなく、わざわざ「男らしく」などと過剰な——もしくは端的に「間違って」いるやも知れぬ——表現を使うのかといえば、「正論」はその当たり障りのない「正しさ」ゆえに、ただ言葉の中だけで完結してしまい、実生活の側に影響をほとんどおよぼさないからだ。
 実際、この手の「正論」は世の中に死ぬほど溢れかえっているだろう。自分でも結構なカネをもらいながら、「政治家に庶民の台所事情が分かっているとはとても思えません」とかぬかすニュース・キャスター。やはり結構なカネをもらって、カントだのロールズだのを参照しつつ、道徳的・倫理的に何が正しいかを机上で追究している倫理学教授。偶然文化的に大層な家庭に生まれたがゆえに「民主的」な思想を身につけ、さかんに男根主義がどうのとか言いつつも、差別に走らねばならぬほど経済的に追い込まれた貧民、プライドをズタズタにされた貧民のポジションをまったく理解しようとしない「ラディカル」な思想家たち。いいから少し黙れ。
 思えば久坂玄瑞(くさかげんずい)は高杉晋作にこう言っていなかったか。「前に僕が『何のために生きるのか』と訊いたら、君は『治国平天下』と答えたよね。それじゃダメなんだ。そんな穏当な正論を口にしてたらダメだ。なるほど主張としては同じかも知れないけれど、そこはあえて『救国済民』と言わなくちゃいけない。こっちの方が断然グッとくるだろ? 過剰で威勢がよくトンデモな分、俄然肝っ玉に働きかけて、是が非でも何かせねばって気にさせるだろ? 発言(表現)は常に正論を踏み越えるようなかたちで為されねばならない」と。
 まったく久坂先生の仰るとおり。しかし少々つけ加えておけば、過剰で歌舞いたトンデモな表現は、その過剰さがしばしば「間違った」次元へと突き抜けがち——件(くだん)の「男らしく生きる」の場合が典型的——なので、たんに人様を行動へと焚きつけるのみならず、何よりもそれを使用した当人へある種の責任を課すだろう。言葉の上での「間違い」は実生活において償われねばならない。すなわち主張を言葉の中だけで完結させてはならず、必ずや実生活の側へと波及させて、代わりにその場こそを「正論」に仕立て上げなければならないのだ……。
 そんなわけで、『衆生の倫理』では衆生(大衆)=ダメ人間を肯定するために、思いっ切り歌舞いたロジックと表現とを活用してみた。執筆にあたって依拠した連中は大体以下のとおり。フロイト、山中鹿之介、ユング、ベンヤミン、ソフォクレス、高杉晋作、鈴木大拙、マイスター・エックハルト、桂小五郎、アレンカ・ジュパンチッチ、保坂和志、モリエール、ハンナ・アレント、武田信玄、テミストクレス、マルクス、ベイトソン、臨済、フーコー、etc……。ヒマなときにでも手にとってもらえたら有り難い。
(いしかわ・ただし 文芸評論家)

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衆生の倫理

石川 忠司 著

定価777円(税込)