BRAVI!  パラレルワールドの我樂多樂團

大熊ワタル

 チューバを間近に見たことがある人なら頷いてもらえるだろうが、あんなに真鍮をふんだんに使った見事な物体はない。新品のチューバは、貴金属に決して引けを取らない輝きを放ち、人は、夢のように流れるその鏡像に吸い込まれるだろうし、古びたチューバとて、大事に使い込まれたものなら、いぶし銀の味わいがあるというものだ。いやしかし、その前にそれは楽器だ。空気を直接振動させて奏者の身体からポンプのごとく繰り出される低音の数々。もちろん、奏者にもよるのだが、それはまた格別だ。なんといっても、移動しながらだって演奏できる。そんなチューバの、しかもよい奏者を仲間にできたら(とくに旋律楽器の奏者にとって)、それがどんなに素晴らしいことか。まあ、黒帽子のクラリネット男ならずとも、そう断言できるだろう。
 前振りが長くなってしまったが、このチューバをめぐる、奇特な、否、素敵な小説が、いよいよ単著として刊行されることに、あらためてお祝いの言葉を捧げたいと思う。はじめて太宰治賞受賞作「mit Tuba」の噂を耳にしたときは、職業柄、もちろん興味はあったけど、まさか、こんな形でお祝いさせてもらえることになるとは、思ってもいなかった。
 しばらくして、ネット上で偶然出くわした、作者の太宰治賞受賞の言葉に、僕とバンドへの謝辞を見つけたときは、うれしさと驚きが一斉にダッシュ、一瞬フライングしたのは驚きのほうだったか。
 幸い(笑)、僕が読んで困るようなことは何もなかった。とはいえ、作中登場する「我樂多楽團」の編成やレパートリーは、実際のシカラムータとの共通点がかなりあるので、パラレルワールドの分身を見るようでもあり、思わずニヤニヤしてしまう。たしかに、黒帽子と僕は、同じクラリネット吹きで、帽子やら何やら、輪郭は似ているような気もするが、僕はあんな目立ちたがり屋ではないし……(え? 違う? おかしいな、今度黒帽子と会ったら、あんまり紛らわしいことするなって、とっちめてやろう。)……。
 それはともかく、この作品は、史上初のチューバ小説ではないだろうか。チューバ小説であるということは、楽器小説であり、また音楽小説でもある。音楽小説という括りなら、いろいろ先例があるだろう。僕もアーシュラ・ル・グインの作曲家にまつわる短編を面白く読んだ覚えがあるし、一時期の五木寛之も、ジャズトランペッターが出てくる話などいくつか書いていたっけ。まあ、他にもありきたりな話なら、いくらでもあるかもしれないが、面白い前例は意外に少ないのではないだろうか。この作品の場合、楽器のフェティッシュに埋もれることなく、しかし楽器の個性・特徴を描ききることによって、音楽の普遍的な価値を文章化することに成功しているといえるだろう。
 また、視点を変えてみると、この作品は、近年の世界的なブラス音楽(吹奏楽)再評価の一例としてみることもできる。九〇年代のイギリス映画「ブラス!」もそうだし、日本国内でも、ブラスバンド・シーンや関連した表現(漫画、映画)などが盛り上がっているようだ。「ブラス!」や邦画「スウィングガールズ」など、吹奏楽関連の映画は、どこか社会的に落ちこぼれた連中が、奮闘のすえ、コンクールなどで成功を収めるというパターンが目に付く。成功の上昇曲線は、見るものを高揚させるが、ひとつ間違えると、支配的な文化の論理に回収されてしまう危険性をはらんでいるように思う。
 吹奏楽は、軍楽をルーツとして、集団演奏を主眼に発達してきた。集団には、個々の限られた力を、足し算以上のものにする可能性がある半面、とかく排他的になったり、同質化圧力が先走ったりしがちだ。吹奏楽は、かつてフーコーが指摘したような、規律社会としての近代社会の縮図と見ることもできる。
 その点、われらがチューバ娘の場合、常に周囲の流れに呑み込まれず、不器用でも、自分の感覚・判断をあきらめようとしない。それはまた、作者自身の声でもあるだろう。その瀬川ワールドの、記念すべき第一歩に呼び込んでもらって、こんなにうれしいことはない。
(クラリネット奏者・シカラムータ主宰)

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