折口信夫と天竜川

中沢新一

 旅行で立ち寄った浜松駅構内の本屋で、何気なく手に取った本は、東海地方に住む登山好きのために編まれた、ハイキング・ガイドブックだった。低山ハイキングを愛好する浜松のグループによってまとめられたその本は、一見すると平凡なガイドブックのつくりをしているものだったが、私には異様な興味をかき立てる内容だった。
 その本は、名古屋や東海の山好きがほとんど日帰りか、せいぜい一泊泊まりで楽しめる、気軽な山歩きを紹介する内容だった。奥三河の鳳来寺山あたりからはじまって、天竜川の両脇に広がる山塊がつぎつぎに紹介されて、そこから東にそれて静岡との県境地帯の山々に向かい、そのあたりを歩ききると、こんどは天竜川の流れを伊那谷に沿ってずんずん遡行して、ついに諏訪湖にいたる。私に驚きであったのは、この山歩きの全体にひとつの意味をあたえる存在としての重要性をあたえられていたのが、諏訪湖のほとりの守屋山である、と書かれていたことであった。
 その本によると、東海地方に住む山好きたちにとって、守屋山は昔からなにやら知れぬ奥深い意味を持っていたらしいのである。守屋山は数百メートルの高さしかない低山である。山容もとりたてて目立った特徴を持たない。ただ山頂からの眺めはすばらしい。眼下に諏訪湖の全貌が広がり、そのまわりを蓼科の山々が取り囲み、向こうには雄大な八ヶ岳がそびえている。では、頂上からの眺望がすばらしいから、このガイドブックは守屋山を山歩きの源流の位置に据えたのかというと、どうもそうではないらしい。天竜川下流域に住む人々にとって、昔から守屋山はなにか特別な意味を持った山であったらしいということを、その本の著者たちは言外に匂わせようとしているように、私には感じられた。
 守屋山は、諏訪湖の東岸に勢力をはっていた、「モリヤ」という古代部族が聖なる山としてあがめていた山だった。モリヤはおそらくはこのあたりに高度な発達をとげた縄文文化の担い手だった人々、または彼らの首長だった家系の名前であろう。ところが古墳時代の末期に、このモリヤの地に、天竜川を遡って、ヤマトでの政争に敗れたイズモ族の一派が侵入してきた。
 モリヤたちはこの侵入者を食いとめようと全力を尽くしたが及ばず、ついに諏訪の地はイズモの支配するところとなった。しかし、イズモは政治の支配者となることはできたが、この土地に暮らす縄文の伝統を保ち続けていた人々の心まで支配することはできなかった。この地に諏訪神社を中心とする巨大な信仰圏が形成されるようになっても、その精神的な「奥の院」を握るのは、政治的に敗北したはずのモリヤの系譜につながる人々であり、そのために諏訪の信仰そのものが、中央に発達した神道とはおよそ体質の異なる「縄文的神道」としての野生を保ち続けることになった。イズモとモリヤはともに敗北したもの同士として共生しながら、この地に独特な諏訪信仰を発達させたのだった。
 このように天竜川の流域には、古代からさまざまなタイプの敗者を呼び寄せる磁力がそなわっていた。天竜川の両脇の急峻な山腹に広がる深い森林に分け入ってしまえば、中央の政治抗争の外に安全に抜け出てしまうことができる。太平洋に滔々(とうとう)と注いでいく天竜川は、日本人の精神史の中で、そのような一種の「アジール」としての意味ももっていて、守屋山がそのことを象徴する源流の山なのである。「山へ入る」というのは、世俗の力が支配する世界の外に出るということを意味しており、その感覚は近代の登山家たちにもひそかに共有されていて、どうやらそれが現代の山好きたちの深層にも生き続けている様子なのだ。
 ところでここで私が読者の注意を喚起したいのは、折口信夫の民俗調査旅行が、まさにこの地帯でくり広げられたという事実である。信州と三河と遠州の県境地帯には、花祭や冬祭や霜月祭の名前で知られる中世芸能が、いまにいたるまで豊かに伝承されている。そのことを知った折口信夫は、足繁くこの地帯を訪れて、失われてしまった原初の芸能の息吹に触れようとした。彼はそれらの芸能が、太平洋岸から山奥の村々に運び込まれたものであることを直感していたが、そのとき同時にそれらの芸能の奥に、世俗的な力の世界で敗北したもののみが共有することのできる、あでやかさの中にわびの混入した微妙な美意識の存在を感知していた。
 日本芸能史にとって天竜川流域は特別な意味を持っており、折口信夫の特殊な感覚的知性がその意味を発見したのであるが、守屋山を源流ないしは頂点として太平洋に向かって広がるこの興味深い三角形地帯に展開した、人知れぬ精神の歴史を考慮に入れてみるとき、そこにはまた別の意味が浮かび上がってくるようにも、私には思われる。
(なかざわ・しんいち 多摩美術大学教授/人類学)

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