筋金入りの昭和電車少年

竹内正浩

 昨今の「鉄ちゃん」の跳梁からは想像もできないが、日本が貧しかった時代、鉄道趣味は裕福な家庭の子弟にのみ許された高尚な嗜みだった。世界中眺めても、鉄道が趣味の対象として認知されている国は、欧米先進国にほぼかぎられている。国全体が自由で裕福でないと、鉄道は趣味として成立しない。
『昭和電車少年』の著者である実相寺昭雄監督は、幼少から鉄道をこよなく愛した少年だった。父は興亜院(のち大東亜省)に勤務する官僚。母方の祖父は、帝国海軍きっての英米協調派として知られた長谷川清大将(この長谷川提督について、日本海海戦の三笠艦橋を描いた東城鉦太郎の有名な絵画の中で、「測距儀を覗いているのがじいさんだ」と、少し含羞みながら、著者が以前教えてくれたことを思い出す)。その一人息子として生を受けたのが著者である。本人曰く「中流の堅気の家庭」(本書二七三ページ)と謙遜しているが、それは嘘だろう。通った小学校が私立の名門暁星ということからも、上流階級だったのではあるまいか。だからこそ、鉄道趣味にも没頭できた面があったはずだ。時局の風潮に抗して、暁星では最後まで坊主頭ではなく坊っちゃん刈りを通したというから、リベラルな家庭環境だったことがうかがえる。
 著者の鉄道好きが世間に知られてきたのは、九〇年代以降だ。したがって鉄道をテーマに執筆したエッセイは晩年に集中している。著者唯一の鉄道本である本書には、執筆した鉄道エッセイのほとんどが収録されている。実相寺ファンはもちろんのこと、鉄道好きにとっても書架に備えるべき本だろう。
 著者の鉄道趣味は筋金入りだった。なにしろ満鉄(南満洲鉄道)自慢の豪華超特急「あじあ号」に乗車した経験をはっきり記憶しているのだ。鉄道ファン歴は約六五年、細部にまでわたる鉄道の記憶と恐るべき収集癖。私が目にしただけでも、昭和一八年の鉄道博物館の入場券や昭和二七年の鉄道科学研究会の試乗・撮影会の招待券、あるいは戦時中の軍人会館のパンフレットなど、およそありとあらゆるものを大事に保存していた。
 最晩年まで、おもな鉄道誌はもちろん、宮脇俊三から、種村直樹・川島令三といった鉄道関連本、とにかく鉄道と名のつく出版物のほとんどに目を通していた。濫読といっていい。たまにお目にかかって交わす会話も、最新車両の話題が中心で、まぎれもなく「超」のつくマニアだったといえる。しかし、分別を欠いたマニアと違って、著者には高い見識があった。LRT(新型の路面電車システム)がヨーロッパで走り出したころから、いち早く着目していた。また短時間しか乗車しない通勤車両に座席のクッションは不要と語るなど、独自の考えをたくさん持っていた。年齢の若い鉄道ファンより、発想や提言はずっと若々しく斬新だった。
 著者は、清新な試みを続けていたJR九州や京浜急行が好きだったし、反対に、新幹線や特急を移動の道具としか見ていない、鉄道旅行の楽しみを奪ってきたある鉄道会社については、ほとんど憎んでいた。出版社からの原稿依頼の多くは、「昭和」の近過去中心だったが、著者自身はむしろ未来の鉄道を語るのが好きだった。
 著者の取材に同行すると、突然立ち止まって、意表をつくアングルで列車や風景にカメラを向けることがよくあった。一度撮られた写真を見てみたかったが、今回の文庫版では、著者自身が撮影した写真の一部が収録されているのが嬉しい。
 一昨年夏、小康を得た著者は、友人・知人に葉書を送った。そこには療養中に詠んだとおぼしき秀句が並んでいた。
   夕闇に立つ炎に息をつぎ
   古書店に寿命の灯ひろいたり
   痩せた身に映画撮れるや江戸風鈴
   菩提寺の柱に巣食う虫となれ
 その中に、異色の句が挟まれていた。
   マレー式の昭和も遠き萬世橋
 最後まで著者は、昭和電車少年であった。
(たけうち・まさひろ フリーライター/鉄道地球防衛隊員)

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