そして人々の語るにまかせよ

宮部みゆき

 いきなり身内の話で恐縮なのですが、昭和九年生まれの私の母も、名を芙美子といいます。何かの折に自分の名前の書き方を説明しなければならない際、母はいつも、「林芙美子と同じフミコ」ですという言い方をしてきました。
 ところが、この十年ばかり、特に相手が二十代三十代の若い方だと、これが通用しない場合(ケース)があります。
「は?」と、問い返されてしまう。
 林芙美子を知らないのです。
 ただ私自身、それについてとやかく言う資格を、まったく持ち合わせていません。作家・林芙美子を、私もよく知らなかったからです。次から次へと奔放に恋をしては、そこからエネルギーを得て、自分のことも周囲のことも、情熱的かつ赤裸々に書き続けた女流作家。う〜ん、何かおっかない。私には理解できそうにないな、と思っていたのです。
 その思い込みを正すきっかけとなったのが、ちくま文庫で刊行されている『名短篇、ここにあり』『名短篇、さらにあり』というアンソロジーの仕事のために、北村薫さんに薦められて、林芙美子の短篇を何作かまとめて読んだことでした。その際、北村さんが林芙美子について温かく語られる言葉も聞きましたし、故・吉村昭さんが林芙美子を深く敬愛し、お好きな作品をテーマに講演しておられる録音を聴かせていただくこともできました。
 林芙美子は詩人であるということを、私はそこで初めて知りました。人の心の動きを、くっきりと的確で平明な言葉で書き表すことにかけて、図抜けた手腕を持つ表現者であったことを知りました。その作品は優れて映像的・音楽的で、読む者に非日常のロマンチシズムを強要するのではなく、むしろいたって日常的な、うち解けたものでありました。
 そして今般、本書『石の花 林芙美子の真実』によって、もうひとつわかったことがあります。私が、よく知りもしないくせに漠然と「おっかない」と思っていた林芙美子は、『放浪記』を書いた作家ではなく、後年つくりあげられたイメージの林芙美子の方だったということです。
 実像の林芙美子は、理解できないどころか、共感してしまうところが多々ある人でした。戦争が始まれば、真っ先に戦地へ女性記者として赴いてしまう。でも一方で、戦意高揚文学に違和感を覚えることを書き留めずにはいられない。その不器用な正直さ。厳しい疎開生活のなかでも、書きたいものが生まれると「いそいそとしてしまう」という愛らしさ。
 本書の終盤に、林芙美子の告別式で葬儀委員長を務めた川端康成が述べた挨拶の言葉が出てきます。
「……故人は自分の文学生命を保つため、他に対しては、時にはひどいこともしたのでありますが、しかし、あと二、三時間もたてば故人は灰となってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか、この際、故人を許してもらいたいと思います」
 こんな弔辞で送られる作家もいるのです。こんな弔辞で死者を見送ることを受容する「文学」というもの。私が「おっかない」と思うべきものは、林芙美子ではなく、そちらの側にこそありました。
 林芙美子の一生は、劇的というより、むしろ苦闘の道のりです。最後の最後まで誤解され続けたこの作家は、それでも愚直に前へ進むことをやめませんでした。
「芙美子に弁解がましい言葉は、似合わない」
 著者の太田治子さんがそう記しつつ、その文章のすぐそばに引用したダンテ『神曲』の一節、
「汝よ、汝の道をゆけ、そして人々の語るにまかせよ」
 この一文こそが、真に林芙美子にふさわしい弔辞であると、私は思います。
(みやべ・みゆき 作家)

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