格差社会で損をしているのは誰か?

大竹文雄

 二〇〇五年以降、日本では「格差社会」が社会を描写する際のキーワードの一つとなっている。そのきっかけは、小泉政権の規制緩和政策が日本に格差社会をもたらしたのではないか、という批判だった。格差や下流といったテーマの本や論説が数多く出版され、国会でも格差社会に関する論戦が行われた。こうした状況を東京大学の岩井克人教授は、「格差論バブル」と呼んだ。実態以上に格差に関する議論が沸騰していた状況をみごとに言い表している。
『日本の不平等』という学術書を〇五年に出版した私は、その格差論バブルの当事者の一人だろう。私の本の主張は、日本の所得格差拡大の要因は高齢化だ、という一番わかりやすいところだけが広く伝わった。格差拡大そのものを否定する学者だと誤解されることも多い。本の副題が、「格差社会の幻想と未来」であったことも理由だろう。しかし、その副題は、日本が格差社会であることを否定したものではない。九〇年代までの所得格差の拡大は、高齢化の要因が大きいが、生涯所得の格差を表す消費の格差は九〇年代に既に拡大を始めていることを指摘した。要するに、現在の所得だけで格差社会を議論してもあまり意味がなく、資産や将来の所得を含めた生涯所得の格差こそ大事で、その生涯所得の格差拡大は既に観察されている、ということを副題に込めたのだ。
 もう一つ私が主張したかったことは、現在が格差社会であるというのなら七〇年代や八〇年代の日本も格差社会だったのであり、「一億総中流」こそ幻想だったということだ。日本の所得格差が低く見えたのは、まだ所得に差がついていない若者の人口比率が高かったことが原因だったのだ。その意味で、〇七年くらいから格差という論点から、ワーキングプアや貧困問題に議論の焦点が移ってきたのは正しい方向だ。不況の影響が新規学卒者や失業者にしわ寄せされるという日本社会の特徴も多くの人に認識されるようになってきた。もっとも、そうしたことが認識されたとしても社会のシステムがすぐに変わるわけではない。それでも、問題の所在を正しく認識することが、問題解決の第一歩である。
 格差社会論が、大きな注目を集めたのは、「格差」という言葉の多義性であったことも一因だ。所得や生涯所得の格差という意味だけではなく、貧困そのものや所得が下がったということも格差と同義で使われることも多かった。特に、所得が下がったということに使われる場合は、既得権擁護論であることが多い。もともと規制で守られていた人が、規制緩和のために所得が下がったことを格差社会になった、と批判したのではないだろうか。
 本当の意味での格差は、若者の間で発生してきている格差であり、問題はその対策をどうするか、という点にある。それには、教育・訓練しかありえない。もし、既得権擁護のためになされた格差社会批判が、一番大切な格差社会対策になる教育・訓練政策への資金投入を阻害するのであれば、なんのための格差社会論争だったのか、ということになってしまう。残念ながら、教育投資を増やすという格差対策の効果が出るのは、ずいぶん先になる上、誰の目にもはっきりとわかる形で出てくるものではない。一方、既得権擁護のための格差社会批判に対応すれば、その成果は即座に出るが、長期的には生産性低下と将来における本格的な格差社会の到来という大きなしっぺ返しを受けることになる。これだけは、なんとかして避けたい。
 今回出版する『格差と希望——誰が損をしているか?』は、格差社会の議論が最も注目された〇五年から〇七年にかけて、私が書いてきた時事的問題に関する論説をまとめ、それに追記という形で現在の視点で解説を加えたものである。この間に発生した様々な企業不祥事や事件、政策問題は、何度も同じような形で議論されてきた。具体的な事件を通して、私たちは意外に普遍的な問題を議論していたのだ。本書を通して、経済学の視点で世の中を見る方法を体験していただければ、ありがたい。
(おおたけ・ふみお 大阪大学社会経済研究所教授)

前のページへ戻る