逃げ遅れた(!?)ケータイ小説論

斎藤美奈子

 昨年の夏ごろから急にメディアをにぎわわせるようになったケータイ小説。ひとつのキッカケは、二〇〇七年上半期のベストセラーランキング「単行本・文芸」部門の上位をケータイ小説(を印刷した書籍)が占めたことだろうか。このブームは昨年末まで続き、年間ベストセラー「単行本・文芸」部門でも、ベスト3をケータイ小説が独占する結果になった。  というわけで、このところ、書店の新書コーナーでもケータイ小説の謎に挑んだ本が目立つ。本田透『なぜケータイ小説は売れるのか』、杉浦由美子『ケータイ小説のリアル』、吉田悟美一『ケータイ小説がウケる理由』、伊東寿朗『ケータイ小説活字革命論』。似たようなタイトルの本が立て続けに出版されるのは、ブームが終息へ向かっている証拠かもしれない。少女の間でひそかに消費されていた商品が大人の社会で認知度を上げ、寄ってたかっての分析がはじまる。まるで八〇年代末の吉本(よしもと)ばななブームのよう。  がしかし、ここへ来ていよいよ真打ち登場。石原千秋『ケータイ小説は文学か』は、初の本格的な(たぶん)ケータイ小説論である。ケータイ小説論だから、ケータイ小説の流儀にならって本書も横書き。著者はしかも、近年、国語教科書や入試問題の中の「文学」と粘り強く取り組んできた石原千秋先生である。おおかたのケータイ小説論が、マーケティング的、あるいはモバイル・コンテンツ・ビジネス的な方向に流れがちなのに対し、「逃げ遅れたテクスト論者」をもって任じる石原千秋はあくまでこれを文学テクストとして遇する。 『ケータイ小説は文学か』という問いへの答えは早い段階で示される。〈いま僕たちに許されているのは、「ケータイ小説とはどのような文学か?」という問いかけだけであって、「ケータイ小説は文学ではない」という言い方は許されていない〉。  ケータイ小説に関しては、事実に基づいているらしいという「実話テイスト」を演出し、「少女の恋愛」を基調とし、定番の悲劇的イベント(いじめ、裏切り、レイプ、妊娠、流産、薬物、病気、恋人の死、リストカットなど)を過剰なほどに盛り込むなど、いくつもの類似点が指摘されてきた。  石原千秋はしかし、そこで終わらず、個々の物語の構造を分析してみせるのだ。主たる分析の対象は、ジャンルの嚆矢ともいうべきYoshi『DeepLove 第一部 アユの物語』(二〇〇二)、実話テイストを旨とする「リアル系ケータイ小説」のブームを牽引した記念碑的作品、Chaco『天使がくれたもの』(二〇〇五)、映画化もされて大ヒットした美嘉『恋空』(二〇〇六)、ほかである。  荒唐無稽でありながらも「きれい/汚い」という二項対立の構造が鮮明な『DeepLove』。「素直」になれなかったために、ヒロインがことごとくチャンスを逃す『天くれ』。『天くれ』の図式を踏襲しながらも、感動のポイントをひとつに絞り込むことで成功した『恋空』。  プリマー新書の読者層にはちょっと難解かなという部分もある。しかし、どんな年齢層の読者もけっして子ども扱いしないのが石原流だ。愛の「誤配」から「ホモソーシャル」まで、あるいは『冬のソナタ』から村上春樹文学まで、さまざまな用語や概念を駆使した分析は十分に刺激的。そこから浮かび上がるのは、ケータイ小説の物語内容がもつ意外な保守性と、しかし最後の聖域であったはずのセックスまでも記号化する、稚拙さも含めた物語形式としての新しさである。〈それはもはやどこにも特権的な言説が成立しない世界であって、「ポスト = ポスト・モダン」と呼ぶしかないのではないだろうか〉。 『DeepLove』以来、主たるケータイ小説をほぼリアルタイムで読んできた私にも、この部分は得心がいく。そうなのだ。『ケータイ小説は文学か』という問いは「文学とは何か」という問いをたえず誘発するのである。「初の本格的な」といったのはそういう意味。そこでは読者も試されている。
(さいとう・みなこ 文芸評論家)

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