つた、つた、つた という跫音とともにまれびとは松浦寿輝に近づいていく

大澤真幸

 私も折口信夫の文章・論考に魅了され、またそこから刺激を受けてきた。二十代の頃、かなり長い折口信夫論を書いたこともある(「まれびと考」『思想のケミストリー』紀伊國屋書店)。だが、松浦寿輝さんがものしたような『折口信夫論』は、私には絶対に書けない。おそらく、松浦さん以外の誰も、このような折口論を書くことはできないだろう。何が違うのか?
 とりあえずは、松浦さんには、他の人にはない勇気と力があると言うほかない。「ふと折口みたいな文章が書けたらと夢見てしまう心の弱さ」に敢えて殉じてしまう勇気と、それをまっとうし、さらには通り抜けてしまう力が、である。松浦さん自身が注目している折口の言葉を借用して表現するならば、次のようなイメージが正確であろう。折口の文章は、まだ収まりのつかない、よるべない霊を解き放っている。裸虫のような霊を、である。松浦さんの言葉は、その霊あるいは裸虫に、まさに
「これぞ」と言うような「衣」あるいは「殻」をあてがってしまうのだ。
 周知のように、折口信夫は、絶対的な他者である「まれびと」の共同体への来訪に、さまざまなものごとの発生を、とりわけ言葉(国文学)の発生を見る。この折口の想像力あふれる議論に対する、松浦さんのさまざまな独創的な読解の中でも、とりわけ驚嘆に値する解釈は、まれびとを介するこうした発生のメカニズムが、「エクリチュールの大嘗祭」としての構成をとっているとする説明である。大嘗祭は、新天皇が神=まれびとを迎える儀礼であり、このとき新天皇は神から霊力を贈与される。大嘗祭こそ、発生の儀礼の原型である。この大嘗祭において天皇が神を迎えているちょうどそのとき、仮名が漢字を迎えている、こう松浦さんは解釈する。
 大嘗祭は、まれびとと天皇との交接・結婚を擬態する。つまり、まれびとを歓待するために、天皇は、私の躯を食べてください、私の躯を享受してください、と自分自身を差し出す。その際、天皇は、素裸の生身ではなく、「天の羽衣」とも呼ばれる特殊な「衣=裳」をまとっており、その「衣」そのものと一体化している。松浦さんによれば、この衣こそ、仮名、「音」によって織り上げられた仮名の布である。したがって、大嘗祭においては、音声文字としての仮名(衣と化した天皇)が、漢字という表意文字たるまれびとから「魂」を受け取っていることになる。これこそ、エクリチュールの大嘗祭である。
 日本語の顕著な特徴が、そのエクリチュール(文字)のシステムに、つまり漢字仮名混じり文にあることは、誰でもよく知っている。しかし、もしこのエクリチュールのシステムが、松浦さんが折口を介して語るように、まれびと(漢字)と共同体(仮名)との間の饗応関係に対応しているとしたらどうであろうか。日本語のエクリチュールのシステムには、(社会)関係に基礎を有する根拠があるということになり、日本語への視野が一挙に開けてくる。実際、仮名が主に受け持っている(「詞」ではなく)「辞」——つまり「てにをは」、そして何より文末——には、話者の他者への、(社会)関係への態度が具現しているではないか。
 このように次々と繰り出されてくる魅惑的な解釈を読んでいるうちに、読者は気づくのである。つた、つた、つたという跫音とともに、松浦さんのもとにまれびとが訪れている、ということに、である。折口信夫というまれびとが松浦さんに近づき、口移しに言葉を伝授し、松浦さんの口を通じて語っていたのだ。松浦さんの折口論が、他に類例のないものとなる究極の原因は、松浦さんとまれびと(折口)とのこうした関係にこそあったのである。
 だが、松浦さんは、まれびとの魅力に抵抗し、ついにはまれびとを裏切るための手掛かりをも、ほかならぬ折口から引き出してしまう。「石」が、それである。遠くからやってくる神(まれびと)と、その神に屈服して、服従の誓約を語らされてしまう近くの精霊(土地の精霊)という、遠近の対照がある。だが、戦争を経て、晩年にいたってから、折口は、この遠近の対照の中に収まらない霊、「未完成霊」という観念に想到する。未完成霊は、他界に行くことができず、われわれの身の回りの諸物、とりわけ石の中に入り込んだまま出てこない。つまり、こういうことである。一方で、「音」として接近し、「衣」としてまとわりつき、まれびとによって吹き込まれることにおいて盗まれる言葉がある。他方には、石という充実態の中に入り込み、封入され、沈黙の内に留まったままの言葉がある。まれびとの権力を迂回する「石」というトポスを、折口そのものの口から語らせているとき、折口と松浦さんの関係が、まれびとと土地の精霊の関係が、実は、逆転している。
(おおさわ・まさち 京都大学大学院教授)

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