カフカの両義性

平野嘉彦

 カフカの小説のなかに、意識下の余剰のようなものを、色濃く残していると思われるテクストがある。さしずめ「判決」と「村医者」は、その双璧だろうか。この二編は、執筆するに際して、作者が意図して構成したわけでもなく、したがって、作者自身といえども、事後にみずから解釈してみせることもままならない、おそらくそうしたたぐいの作品なのである。一義的には解釈しがたいといっても、たとえば、よく知られた「家長の心配」のように、なるほど理屈ではなかなか割り切れないにしても、その語りがそれなりに読者の腑に落ちる、そうした小品とも異なっている。糸巻きのような形をした、謎めいた生き物である「オドラデク」に、まるでそれが旧知の存在であるかのように、読者がいつしか慣れ親しむことができるのは、距離をおいて語りついでいく語り手の、ひいては作者の、つねに静かな、ときには皮肉な眼差しを、おのずから感じることができるからだろう。しかし、「判決」と「村医者」は明らかにそうではない。前者は三人称小説で、後者は一人称小説であるという相違はあるが、序破急と、いずれもあわただしく破局につきすすんでいくその叙述に、読者はかならずしも、その都度、了解して、つきしたがっていくわけではない。悪夢を思わせるその小説世界は、たしかに精神分析的な解釈に恰好のものだろう。
 カフカ自身は、この二つの作品にみずから満足していた。一晩で一気に書き上げた「判決」を、後日、友人たちのまえで朗読したときには、この「物語の疑う余地のないこと」を確信して、涙を浮かべたほどだった。「村医者」についても、「まだときおり満足をおぼえることができる」のは、このような作品である、と彼は日記に書きとめている。もっとも「それが幸福であるのは、私が世界を純粋な、真実な、変わらざるものへと高めることができる場合にかぎってのことなのだが」と、付言してはいるものの。
 そうかと思うと、まったく異なった性格をもつテクストも存在している。今回、上梓した『カフカ・セレクション』には採らなかったが、「鉱山の訪問」と題した小品がその一例だろう。しかもそれは、上記の「村医者」が含まれていて、かつその標題もそこから引かれている小説集に収録されている。鉱夫の一人である語り手が、測量のために鉱山にやってきた十人の技師たちを、順々に品定めしていくという、なんとも退屈な内容だが、ある解釈者によれば、これは、カフカの作品を刊行してくれていたベルリンのクルト・ヴォルフ出版社の一九一七年度の年鑑にその作品が掲載された、十人の著名な作家たちを暗に批評し、揶揄したものだという。そうだとすれば、この小品は寓意そのものであって、カフカが理想としていた完璧な作品(それがどこまで実現しているかは別として)にはほど遠いことになる。しかし、それをめだたない瑕疵のように、瑣末なノイズのように、ただ無視してしまうことはできないだろう。なぜなら、そうした意図的な寓意は、この小品にとどまらず、カフカの作品のそこかしこに播種されているようにもみえるからである。
 おそらく、カフカの作品のなかにあって、こうした二様の作用が、けっして調和することなく、拮抗し、並存しているにちがいない。それは、読者が二者択一すべきものではないし、そもそも選択することができるものでもない。ただ、もしかして寓意ではないかと疑われるディテールに、多くユダヤ人の問題にかかわる含意が隠されているように読めてしまうのは、いったいどうしてだろうか。カフカの作品に罅裂(かれつ)をはしらせ、それを壊そうとするものが、そこに現前しているかのように。なぜなら、いかに逆説的に響こうとも、文学とは、壊されることによってこそ、文学たりうるのだから。
(ひらの・よしひこ 東京大学名誉教授/ドイツ文学)

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