「国語辞典年表」を書いて

武藤康史

 ヒキタクニオ『角(つの)』(光文社、二〇〇五年刊)は愉快な小説だった。
 純愛物語としても愉快だが、主人公が校正者(出版社の校閲部員)というのが珍しい。校正者から見た出版業界の内幕 ……というのも興味をそそられる。そして何より、「小説の中で国語辞典の語釈を引用している」という点が愉快であった。それも前後一行アキで語釈そのものを引用するという形である。数箇所あった。すべて『広辞苑』。
 こういう堂々たる語釈の引用は珍しい。小説の中で国語辞典が登場するとしても、語釈が引用されることはあまりないものだ。
 伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』(東京創元社、二〇〇三年刊)には本屋を襲って『広辞苑』を奪う……という顛末が描かれている。日本語の辞書を欲しがっている留学生に《ただの辞書ではなくて、厚くて、立派なやつを》プレゼントしたい……ということで『広辞苑』を奪うことになるのだが、日本語のあまり得意でない留学生に『広辞苑』が有用かどうか ……。何か象徴的な名前として『広辞苑』が使われている。もとより語釈の引用もないけれども、ある国語辞典のイメージをしるしとどめた作品として、これもまた貴重である。『アヒルと鴨のコインロッカー』は映画になった(二〇〇六年)。書店の棚の『広辞苑』と『広辞林』がスクリーンに大写しになるのを見るのはすこぶる愉快だった。
 私はこういう、
 (1)国語辞典が登場する小説
 (2)国語辞典が登場する映画
 が昔から気になって仕方がない。それからもう一つ、
 (3)小説家(など)がエッセイ・日記・書簡(など)で、国語辞典を「買った」「引いた」「使った」(など)と書いている記述
 も気になる。それで(1)(2)(3)をコツコツ集めていた。
 どんなにいい国語辞典でも、それを購入する人がたくさんいなければ存在し続けることができない。売れなかったらすぐ消えてゆく。その「売れる」というのも、本当に役立つから売れるということもあろうし、虚名に釣られて、ということもあるかもしれない。国語辞典の歴史を考えるには、辞書のよしあしとは別に、そのときどきにおける読者の気持、感想、使い方なども見わたす必要がある。
 ——などと考えて(1)(2)(3)を集めていた。このたび私の『国語辞典の名語釈』が文庫化されることになり、巻末に年表をつけたら?と注文されたので、緊褌一番「国語辞典年表」を書き下ろし、そこに(1)(2)(3)を詰め込むことにした。
『角』や『アヒルと鴨のコインロッカー』はもちろん、『広辞苑』を引用した柏原兵三の小説、『広辞林』を引用した大西巨人の小説、『辞苑』を引用した太宰治の小説、『言海』の登場する夏目漱石の小説……のことなどをどしどし書き込んだ。
 辞書が登場する映画も、『アヒルと鴨のコインロッカー』はもちろんのこと、『父と暮せば』『赤目四十八瀧心中未遂』『ロックよ、静かに流れよ』『ラブ・ストーリーを君に』『裸の十九才』……など、どんどん書き入れた。
 かねがね『言海』の登場する映画を見たいと思っていたが、一九六二年のある映画で発見した。DVDで見ていてアッと叫び、スローモーションにし、ズームアップにして『言海』だ!と確認、晴れて年表に書くことができた。
 もちろんいろんな国語辞典の変遷が見わたせるように作った年表である。(1)(2)(3)はおまけのようなものだが、これを見ればたとえば『大増訂ことばの泉』の「縮冊」が出てすぐ、中学生の川端康成がこれを使っていることがわかる。『広辞林』が出た翌年、志賀直哉がこれを買っていることがわかる。私も年表にしてみて多くのことが見えて来た。
 もとは大きな紙に殴り書きしたような「国語辞典年表」の原稿だったが、それをよくもまあ文庫の版面にきれいにまとめて下すったもの……と関係各位には感謝あるのみ。
(むとう・やすし 評論家)

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