『謎のマンガ家・酒井七馬伝』
第37回日本漫画家協会賞特別賞受賞記念特別寄稿

謎のマンガ家・酒井七馬外伝

中野晴行

 昭和三一(一九五六)年、夏。
 大阪市天王寺区堂ヶ芝町。
 大阪の夏は熱気が手足に絡みつくように暑い。ひとりの青年が流れる汗をハンカチで拭き拭き歩いている。ふと立ち止まると、家と家にはさまれた狭い路地に慣れた様子で入っていく。路地の奥には小さな平屋があって、玄関には大きめの紙封筒がピンで留められている。その横には、なかなかの達筆で「弟子入りお断り」という貼り紙。ずいぶん前から貼ってあるようで紙が黄ばんでいる。
「しもたなあ。先生は喫茶店かいな。駅から直接あっちへ行けばよかった……」
 青年はそうつぶやくと、路地をとって返した。路地から国電の大阪環状線桃谷駅までは一〇〇メートルも離れていない。ガード下から始まる商店街のとば口にある「ヤマト珈琲店」という古い喫茶店に青年は入った。昼下がりの店内はがらんとしており、小柄な中年紳士がぽつねんと座ってカレーライスを口に運んでいた。
「酒井先生」
 声をかけると、中年紳士は「おう。吉田君か」と顔を上げた。
「先にお宅にうかがってしまいました」
「そうか。あんまり暑いんでなあ、朝から原稿を描いておって昼ごはんも食べ損なったこっちゃし、ここで涼みながら腹ごしらえや」
 うだるような外の暑さと比べて冷房の効いた店内は確かに天国だ。
 カレーは、生卵とウスターソースを混ぜた、いわゆる卵まぶし。織田作之助も愛したという、関西人独特の食べ方である。青年は同じテーブルに腰を下ろしたが、中年紳士はそちらを見るでもなく、ただ黙々とカレーを口に運んで食べ終えると、コップの水を飲み干し、煙草に火をつけた。
「先生のテレビ、見させてもらいました」
 煙を吐き出すのを待つようにして青年が言った。
「ふう。別に無理して見てくれんでもええのや。第一、出演者の僕が見ることがでけんのやから。なんでも、キネコとか言うフィルムみたいなものに録ったものがあるらしいが、わざわざ見るのも照れくさいもんやしな」
 青年の名は吉田利照。京都教育大学の学生で美術を勉強している。中年紳士は、マンガ家の酒井七馬。戦前からアニメや風刺マンガで活躍し、戦後は新人の手塚治虫と合作で『新寶島』の発表。その後も子どもマンガブームの中心にもいた人物だ。ちょうどこの頃は、地元の夕刊紙『大阪日日新聞』に「ボクは弁慶」という連続マンガを連載中だった。
 ふたりの出会いは六年ばかり前。マンガ家志望の中学生だった吉田が、酒井の家を訪ねて作品を見せたのがはじまりだった。「弟子入りお断り」の貼り紙を出してはいても、酒井はマンガ家志望の少年にていねいに指導して、コーヒーまでご馳走したのだった。以来、機会があると吉田は酒井の家を訪ねるようになった。
「ところで、吉田君。君は阿波の鳴門に行ったことはあるか」
「鳴門観潮ですか。残念ながらまだ行ったことはありません」
「どや。ちょっと先になるが君も一緒に行ってみるか」
「は」
「『ボクは弁慶』で鳴門を舞台にするので取材をしたい、と“日日(にちにち)”の文化部に言うたら取材費を出してもらえることになった。もうちょっと涼しうなったら、お隣の河井君の弟らも誘うて出かけようと思うてる。向うは夫婦で来るやろうから同室というわけにはいかん。誰ぞ僕の同室がおったほうがええから、君はどうかとな。学校のほうはどないや」
「ほんまですか。それは願ってもないことです。学校は適当に休みますが、僕も取材費でええんですか」
「そこは文化部の市側部長がなんとかしてくれるやろ。君さえよかったら行こう。あ、コーヒを二つ」
 ようやく気付いたように、酒井はウエイトレスに自分の分と吉田の分のコーヒーを注文した。

 吉田利照は現在、七二歳。タナベ経営出版部長を定年後、大阪ミナミの道頓堀活性化を推進する商店会の広報を担当し、「とんぼりリバーウォークの会」理事としても活躍中だ。
 昨年一月に、吉田のことを教えてくれたのは、産経新聞のO記者である。
「私は今宮工業高校の電気科を出て、京都教育大学特修美術科に進みました。なかなか就職口のない時代で、酒井先生が日活でマンガ映画をつくっていたと聞いたことを思い出して、先生のところに足しげく通っておれば先生の紹介で映画関係の会社へ滑り込めるんやないか、とそういう甘い考えやったんです」
 吉田が酒井の家に最も足しげく通った時期は、昭和二九(一九五四)年から大学を卒業する三二(一九五七)年くらいまで。ちょうど、『大阪日日新聞』で最初の長編連載「鞍馬小天狗」が始まり、単行本化もされ、続いて「ボクは弁慶」が連載された、酒井七馬にとっては、戦後最も安定した生活を送っていた時期である。
「先生たちと一緒に鳴門旅行をしたのは、あの頃一番の思い出でした。酒井先生もなかなか羽振りが良かったんです」
 しかも、吉田によれば、この時期の酒井七馬は在阪民放テレビ局のクイズ番組にもレギュラー出演するなど、多彩な仕事振りを見せていたのだという。
 当時、スタートしたばかりの大阪のテレビ局では、マンガ家が引っ張りだこだった。マンガ家たちは戦前から余興として、舞台で「マンガ・ショー」と銘打って、お客のリクエストするマンガを大きな紙に描いて見せたりしていたが、これが草創期のテレビにはうってつけだったのである。
 一躍人気者になったのは、のちに吉本の舞台でも大活躍した木川かえるである。戦後、大阪の出版社で子どもマンガを描いていた木川は、数作を描いて引退。その後は、軍隊時代に慰問部隊で活躍していた経験を生かして、米軍キャンプで「ジャズマンガ」というタイトルのマンガ・ショーを演じて評判となった。テレビはその「芸」に目をつけたのだった。
 酒井も戦後は、遊園地や慰問先の施設などでマンガ・ショーを演じており、大人数のショーでは企画・構成を担当することもあった。
 テレビでは出題者が問題を出すのにあわせてさらさらと絵を描いて見せたのだという。いつもベレー帽姿の酒井はテレビ映りも良かったそうだ。
 ほかに酒井は、松竹新喜劇の「筋書き(プログラム)」のイラストもレギュラーで引き受けていた。
 松竹新喜劇は、曾我廼家十吾らの「松竹家庭劇」に、「松竹家庭劇」を脱退した二代目渋谷天外、浪花千栄子、藤山寛美らの「新家庭劇」、曾我廼家五郎亡き後の「曾我廼家五郎一座」の残党が合流する形で昭和二三(一九四八)年一二月に旗揚げ。当時は、昭和三四(一九五九)年のテレビドラマ『親バカ子バカ』で藤山寛美がブレイクする直前であった。吉田は振り返る。
「天外さんも寛美さんも先生の絵は気に入ってはったと思います。私も酒井先生のお供で、よく無料(ロハ)で舞台を見せてもらいました。道頓堀・中座の調光室に入れてもらって、そこから見るんです」

 酒井七馬と吉田利照が鳴門取材を話し合ったのと同じ夏。酒井の家に四人の珍客があった。
 ひとりは、かつて酒井が子どもマンガを描いていた時代の知人である久呂田正三。そして、彼が連れてきた若きマンガ家たち——松本正彦、辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかをの三人である。当時、久呂田は大阪市南区(元中央区)にあった貸本屋向けマンガ出版社「八興・日の丸文庫」の顧問格。松本、辰巳、さいとうは実質的な専属として、描き下ろし単行本を描いていた。四月に、松本と辰巳が中心になって創刊した短編集『影』に、松本が発表した短編「隣室の男」に触発される形で、若い三人は桃谷にアパートを借りて合宿を行っていたのだった。
 合宿を訪ねた久呂田が三人を酒井を紹介したのである。もっとも、さいとうは酒井のリアルタッチのマンガを評価していたが、辰巳や松本にはそれほどの思い入れがあるわけではない。手塚治虫の『新寶島』の合作者として名前を知る程度であった。その手塚のマンガですら、彼らには物足りないものになっていた。彼らの新しいマンガの形を決めたのが、松本の「隣室の男」だったわけである。それは映画のように、カットを積み重ねた心理描写や、リアルな表現を駆使した、従来の子どもマンガとは一線を画すものだった。
 急な来訪者に酒井はちょっと戸惑った。ちょうど、『鞍馬小天狗』の単行本の返品の一部が、酒井宛に送られて来たばかりだったのだ。発行元の美育社は東京・浅草の出版社だったが、発行人の三島源治郎は大阪市南区順慶町にあった三島書房の社長でもある。倉庫がいっぱいなので困った三島が、著者にも責任の一端はあると、在庫の一部を持ち込んできたのだ。  その異様な様子は、松本正彦の『劇画バカたち!!』にも描かれている。酒井の家は玄関を上がったところが四畳半ほどの板の間。その奥に便所と、三畳ほどの畳の部屋があって、執筆を含めた生活の場は畳の部屋のほうだった。そこで、板の間にうずたかく本が積まれることになったのだ。
 松本が自分のマンガを「駒画」と名づけるのは、この合宿のすぐあと。辰巳が「劇画」というネーミングを思いつくのは、昭和三二(一九五七)年一二月。辰巳の劇画を名乗った最初の作品「幽霊タクシー」が、貸本向け短編誌『街』に掲載されたのは昭和三三(一九五八)年一月である。酒井七馬と劇画の短い遭遇であった。
 吉田に電話をして、こういうできごとがあったことを知っているかどうか、確認してみたが、知らない、ということだった。
『劇画バカたち!!』の中で、酒井が若いマンガ家たちに『新寶島』のことを語るシーンがあるのだが、と問うと、
「『新寶島』のこともあまりお話しされたのを聞いたことがないのです。アニメをやりたい、というようなことは時々言うておられましたが……。ただ、一度、どういう機会だったか、手塚さんのことを虚栄心の強い男だ、と語っておられたのが印象に残っています」と答えてくれただけだった。

 夕暮れになっても暑さは引かない。桃谷の駅で吉田青年と別れた酒井七馬は、長い影法師とともに路地の奥の自宅に戻っていく。
 ドアのところにピンで留めてあった紙封筒はなくなっていた。
「“日日(にちにち)”が持って行ってくれたんやな」
 ドアを開けると、板の間にはまだ返品の本が積まれたままだ。そこに西日がさし込んでいる。
 奥の三畳のすわり机の前に腰を下ろした酒井は、机の上の缶入りピースを開けて一本を取り出し火をつける。机の中央には、鉛筆の下描きが半分くらいまで入ったマンガ原稿が一枚。
「鳴門まで取材に行くとなると、少しまとめて仕上げなあかんか」
 そう独り言を言いながら、くわえ煙草のまま、肥後守で鉛筆を削りはじめるのだった。
(なかの・はるゆき フリーライター/編集者)

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