軍隊小説、我が青春

高田里惠子

 たしかに、そんな時代があったのだと思います。西洋近代の文学が日本人にとって意味を持っていた時代です。もっとも、日本人にとって、というのはまったくの言い過ぎで、インテリ青年にとって、ということです。青春の自己形成において、西洋文学の登場人物を自分の分身のように感じてしまう若者たちが、たしかにいました。たとえばジュリアン・ソレル(『赤と黒』)、たとえばイワン・カラマーゾフ、たとえばジャン・クリストフ。わたしの専門分野のドイツ文学でいえば、ウェルテル(『若きウェルテルの悩み』)やトニオ・クレーゲルなどを挙げることができるでしょう。大正時代から一九六〇年代くらいまでのこの時代は教養主義時代と呼ばれることもあるようです。
 右に挙げた名前は、社会のなかの反抗者あるいは挫折者ですが、経歴や出身や才能の面から見れば、(最近の××賞受賞作に登場するような)変人や社会的弱者ではありません。その点では、同じくインテリ青年の自己形成に影響を与えた夏目漱石の作品の主人公に似ています。このような西欧の人物たちが、近代化していく日本のある歴史的段階においては、切実さとリアリティをもって、極東の青年を魅了しえたのです。
 いやいや、現在だってウェルテルやら何やらは若者たちに訴えかけるものを持っているはずだよ、だって、ほら、例の古典新訳シリーズの(予想外の)成功を見てみなさいよ。こういうふうに考える人もいないわけではありません。けれども、かつてあった、日本社会と関わるような意味はもはやない、とわたしは思っています。などとのたまうわたしは、若いころからゴリゴリの(遅れてきた)教養主義者で、某社の西欧文学ラインアップなんぞは大好きなのですが、しかしウェルテルの悩みのなかに自分の「問題」を見いだすことはさすがにできなかったというわけです。
 かくて、悩み多き文学少女はなぜか、戦後日本の軍隊小説に向かいました。いまの話の続きで言えば、まあ、我が青春(ギャッ)の「問題」がそこにあったということでしょう。今回プリマー新書に加えてもらった『男の子のための軍隊学習のススメ』は、青春まっただなかにいる男の子と女の子(ただし年齢不問)のみなさんに、その「問題」を伝えようとするものです。実は最近になって、軍隊小説の細部が再び、しかもより深く、わたしの心に浸透してきて、このことが、ぜひ今回の本を書きたいという原動力になりました。
 わたしの好きな軍隊小説が描いているものは、帝国軍隊の素晴しさとか皇軍兵士の勇敢さとかでは、もちろん、ありません。それどころか、人間の、いいえ日本人の卑しさや悪意や不合理のオンパレードです(みなさんも、日本軍内部の腐敗は聞いたことがあるでしょう)。しかし、見事に描写された人間の卑しさはユーモアさえたたえてしまうことがあるようです。その時そこに、観察する主人公や作者の、人間にたいする寛容の眼差しがぼんやり浮かんでくる。それは、自分の弱さを棚に上げて、周りの他者を心のなかで非難し、やたら苛立っていた若いわたしをしずめてくれました。いまだって、不寛容の塊のようなわたしはすぐに人間憎悪にとらわれます。しかも、わたしたちを取り囲む他者はネット空間にまで広がってしまったわけですから、なおさらです。
 人間の弱さや卑しさ、それを見つめることからのみ生まれうる寛容。それが『男の子のための軍隊学習のススメ』の隠れたテーマです。この本を読んで、取りあげられた軍隊小説も読んで、あっ、ついでに『若きウェルテルの悩み』も読んで、そうすれば、みなさんの青春の悩みもスッパリ解決……しません。
(たかだ・りえこ 桃山学院大学教授)

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