他者を思う自然で私の一存の死?

立岩真也

『良い死』という題の本を出してもらった。このところ、良い死について書かれた本はたくさんあるのだが、その一冊というわけではない。むしろ、良い死を願っていたりするとあまり良いことはないのではないか。そんな思いがあって書いた。そして次に、年内に、『唯の生』が出版される。もう一冊、関連する本の紹介をする本(『生死本』、仮題)もできてしまうのだが、これはその次になる。
 まず、自分の死は自分が決めることだと言われる。また、人工的な延命より自然な死がよいと言われる。そして、人の数やお金のことを考えると、人を生かすのにも限界があると言われる。むろんみなそれなりにもっともなのだが、そのままに受け入れるのは違うのではないか。そう思って、かなり長い序章の後に、第1章「私の死」、第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」、第3章「犠牲と不足について」という三つの章を置いて、考えたことを書いた。詰めきれていないところ、言い足りないところはいろいろとあるけれども、基本的にまちがったことは書いていないと思う。
 一つに、決めることが大切であると同時に、決めなくてよいこともある(第1章)。そして、人だろうと物だろうと使うものは使いながら、同時に、ただ世界を受け取っているのでよいではないか(第2章)。そんな具合に死ぬ前の時間を生きていられるようにすればよい。それ以上・以外の人生を送るのもよいことであるとして、基本はそこに置けばよい。
 すると、それでは社会はやっていけないなどと言われるが、どうしてそのように言えるのかわからないと返す(第3章)。これで終わりだ。しかし終わらせてもらえない。「あなたのように思う人がいてもかまわない。しかし人はそれぞれだ。すきなようにさせればよいではないか。」こう言われる。話はもとに戻される。それで引き下がることにするか。もう一度考えることになる(第1章)。
 こうして、この本は、とくべつに死に際のことについてだけ書いた本というわけではなく、むしろ、その手の本には普通出てこないこと、例えば「国際競争」について論じられたりしている。あるいは、私たちは人工物をいくらも作り使っているのだが、しかし同時に、自然は大切だと思う。そこはどういうことになっているのか。すこし考えてみてもよいかもしれない。そんなことについて書かれた本として読んでもらってもよい。
 ただそれにしても、なんでこの本を書いたかと言えば、尊厳死法案だとか様々が私たちの社会に浮上し普及してきて、それで、なにごとか考えなさい書きなさいということになり、では仕方なく、ということだ。第一に、このような本を書かねばならないこと自体がよいことであると、私は思えない。
 本を書いて出してもらうことはふつう喜びであるのだが、このたびはそんな感じがしないのも、まずそんな事情がある。そして第二に、ここでは、ただ論理として筋の通ったことを言えばよいというものでもないということだ。様々な短絡があると言ってそれを批判して、その批判そのものは当たっているとしても、もちろんこの世はそのように動いていくわけではない。むしろ、長々とだらだらと私が書いてしまうなら、それはかえって批判の力を削ぐかもしれないという心配もある。それで、『通販生活』がこの主題の特集をした時の一四〇〇字ほどの短文を最初においてみたり、すこし工夫はしてみたのだが、しかしそんなことも含めた疲労感はある。
 そして第三に、私が、どんな現実も引き受けるわけでなく、ただ言葉を操るだけの者であること。だが、そのとおりだが、では現場にいる人たちは何を知っているかと、将来の自分を案ずる人がその将来の自分を知っていると言えるのかと、そんなことも言いたくはある。だから、結局、私はこの本を書いた。ただ書いただけでなく、誇らしく宣伝するようなものではないのだが、しかし読まれてほしいものとしてこの本を書いた。
(たていわ・しんや 立命館大学大学院教授)

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良い死

立岩 真也 著

定価2,940円(税込)