建築のハムレット

隈 研吾

 著者レム・コールハースは、今、世界の建築家のリーダーと目されているオランダの建築家で、三百人のスタッフとともに行う世界各地での旺盛な設計活動のかたわら、ハーバード大学の教授も務め、理論においても、実践においても、彼は突出した活動で知られる。そのレムが、古くからの友人である美術評論家のハンス・ウルリッヒ・オブリスト相手に、建築を取り囲む生々しい現実について、縦横に本音で語った対談である。
 ところがその本音、驚くべき事に、建築という存在自体に、徹底的に否定的、批判的なのである。自分が行っているのは、「反建築キャンペーン」なのであるとまで、彼は言い切る。建築の世界のリーダーが、なぜこれほどまでに建築というもの自体に対して否定的でなければならないのか。すなわち過剰なほどに自虐的、自傷的でなければならないのか。彼が建築界のアウトサイダーならばともかく、彼はこの世界のリーダーであり、中心なのである。建築の世界の外側の人間には、この構図は理解不能かもしれない。しかし建築デザインの実務に日々追われ、世間が建築というものに注ぐまなざしの変化にさらされている僕らには、彼がこれほどまでにひねくれてしまった理由がよくわかるのである。
 彼の建築批判の原点は、建築が公的な性格を失った事に対する深い絶望である。建築はそもそも、公的な存在であった。複数の人々によって使用される巨大な空間であり、莫大な資源、エネルギー、人的資源をかけて作られる、時代のモニュメントであったはずである。ところがある時から、建築は徐々にその公的性格を喪失していく。
 レムの師にあたるイギリスの建築家セドリック・プライスが、すでに三十年以上前に、この建築の破産の予言ともとれる逸話をレムに残した。「ある夫婦が家を設計して欲しいと言ってやってきたなら、本当のところ彼らに必要なのは離婚なわけで(中略)自分なら、『あなたたちに必要なのは家ではありません。離婚です』と告げるというのです」。
 夫婦という二人の間での公的な器としての住宅すら、すでに成立不可能だとレムは語るのである。夫婦ですら公的空間を構築できない。ましてや、国、県、市などといった公的な主体によって、複数の人々の幸福を目的として建設される公的空間としての建築など、幻想に過ぎないのだと、レムの絶望は深まるばかりなのである。「現代政治において継続とはほぼ不可能なものであり、どの意思決定機関も、それに先立つ高官らの決定を傷つけることによってしか、自分たちの価値を証明できない」。
 レムのこの指摘は、現代の世界を覆う政治的状況への、かつて耳にした事がないほどに正確な分析であり、特に、日本の政治状況をあまりにも見事に言い当てていて、僕は唖然としてしまった。
 そのように公的なものが、あらゆる領域で消滅しつつある中、それに代わって建築を作り、支えているのは、YESであるとレムは分析する。YESとは、YENとEUROとUS DOLLARの頭文字であり、そのYESに象徴される、グローバル化した、完全に流動化してしまった巨大資本が、短期的利益のための、すなわち売り逃げのための最も効率的な商品として、建築という巨大商品を利用しているというのである。それをレムは「世界が中国的都市へと向かっており、都市はジャンクスペースになりつつある」と分析し、自分のクライアントの前ですら、自分の建築は二十五年でつぶすべきだと発言して、彼らを蒼ざめさせる。
 読了して、結局レムとは、建築界のハムレットであるとの結論に達した。ハムレットは「世界の関節がはずれてしまった」とナルシスティックに嘆く。その嘆きは確かに美しく英雄的ではあるが、もし関節が本当にはずれたならば、関節をひとつずつつなぐべく、具体的に努力すべきではないかというのが、僕の立場である。ハムレットは悲劇の主人公を装って、英雄となった。しかし、われわれはすでに英雄のあとの時代を生き始めているのではないか。読み終わって、その決意を新たにした。
(くま・けんご 建築家)

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