「中流の奪い合い」で右往左往する日本

鈴木謙介

 二〇〇〇年代の前半を「改革」の二文字で彩った小泉元首相が退陣してから二年あまり。安倍政権、福田政権、そして麻生政権と目まぐるしく変わる政局の中で、政治に求められる役割も迷走している。郵政民営化などを後押しした小泉元首相への国民の圧倒的な支持は、官僚の既得権に対する反感などに支えられていたが、現在では格差拡大論などを受け、国家が国民の生活をきちんと保障すべきだという論調に傾きつつある。
 私たちの実感のレベルでも、様々な変化が見られる。たとえば〇〇年代の前半、靖国参拝や、ネット上での中国・韓国バッシングなど、若者の「右傾化」が危惧されていた。しかし彼らはいま、非正規雇用問題の深刻化を背景に「蟹工船ブーム」やフリーター労組結成の動きに見られるような「左傾化」のただ中にある。むろん右傾化にせよ左傾化にせよ、実際どの程度の根拠がある話なのかについては疑問の余地もある。だがよしんばそれが私たちの勘違いであるのだとしても、世に出てくる中心的な主張が真逆に振れていることに対して、なぜ誰も疑問を持たないのだろうか。
 この間の政治への要求が右往左往した要因は、おおよそ以下の三点に求められる。まず、二〇〇〇年以降目立ってきた格差の拡大。これまで自民党が重視してきた地方や自営業、農村への優先的な政策に対して、都市部ホワイトカラー層が反感を持つようになった結果、公共事業などによる再配分が縮小され、地方の商業地が寂れていった。こうした出来事は、高度成長期以来続いてきた、「誰もが中流の生活を送れる」という期待を打ち砕いてしまう。
 しかし実は社会科学的には、こうした「中流の夢」は八〇年代には限界に達しており、非中間層がその夢を叶えるのが難しくなっていったことが明らかになっている。九〇年代の不況と再分配の縮小は、それを私たちにはっきりと突きつけたに過ぎない。ではなぜ今になってそれが目に見えるようになったのか。
 重要なのは、多くの人の中流の生活を支えていたのは、国家の福祉ではなく、企業、なかんずく日本型雇用といわれる、終身雇用や年功序列型賃金だったということだ。現実には日本の福祉支出は先進国でも最低レベルで、その穴埋めを企業が行っていたのだが、不況期になれば当然、その恩恵にあずかれる人は減る。「公共事業の既得権を打破せよ」という主張と、「国がもっときちんと人々の生活の面倒を見ろ」という主張が、一見矛盾するように見えながら日本社会に共存しているのは、こうした構造的な要因に由来する。
 だがもっとも重要なのは、三点目の要因だ。つまり、この「中流の夢」にあずかることのできなかった人が、過去十年、若い世代を中心に蓄積されてきたということだ。これは現在、高年齢フリーターなどの問題として顕在化しているが、こうした「中流の夢の外に追いやられた人たち」が、中流の生活を送ることができた人すべてを「既得権」として批判し、「それをよこせ」と迫る場面が、目に付くようになってきたのだ。
 グローバリゼーションやサービス産業化、情報化を軸とした現在の先進国の就労環境は、高度成長期のような「誰もが中流」という理想の実現を困難にし、中流の生活を送る権利が誰にあるのかを巡る闘争、いわば「中流の奪い合い」を引き起こしてしまう。そしてその状況では、超高額所得者のライフスタイルへの羨望は小さくなる一方で、自分より少し上の中流に対する攻撃が強くなるのである。
 中流の奪い合いが激しくなると、彼らの間での「お前こそ既得権だ」という非難合戦は起きても、そうした格差を生むシステムそのものへの批判は霞んでしまう。その泥沼のような状況を脱し、オルタナティブな社会を構想するために書かれたのが私の新著『サブカル・ニッポンの新自由主義——既得権批判が若者を追い込む』である。本書を通じてここで述べてきたような状況を脱するヒントを見つけていただければ幸いである。
(すずき・けんすけ 社会学者)

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