越境する詩人の生涯

石井洋二郎

 モンテビデオといえばウルグアイの首都、日本から見ればほぼ地球の正反対にあたる。残念ながら私自身はまだ行ったことはないが、現地を訪れたことのある人によれば、南米とはいってもずいぶん西欧的な雰囲気が濃厚に漂う都市であるという。隣国アルゼンチンとの間で「大戦争」と呼ばれる状態が続いていた一九世紀の半ば、敵軍の攻囲に苦しむこの街に生を享けたひとりのフランス人がいた。その名はイジドール・デュカス、のちにたった一度だけ名乗った「ロートレアモン伯爵」という筆名で文学史に記憶されることになる人物である。
 現地のフランス領事館で副領事代理を務めていた父親は、南仏ピレネー地方からの移民であった。母親も彼と同郷の女性だが、いかなる事情によってか、子供を産んでからわずか一年後にこの世を去ってしまう。母親の顔も知らぬまま、慢性的な政治的混乱の渦中で過ごしたイジドールの幼少年時代が、少なからず屈折したものであったことは想像に難くない。
 当時のモンテビデオは西欧系の移民が人口の三分の二を占める典型的な移民社会で、公用語はスペイン語だが、日常生活においては複数の言語が混在するモザイク都市の様相を呈していた。そんな環境で、フランス語とスペイン語のバイリンガルとして育った「準クレオール」のイジドールは、十三歳を迎えた年、単身大西洋を横断してはじめてフランスに渡り、父親の故郷に近いタルブの高等中学校に寄宿生として入学する。この地方都市で出会ったジョルジュ・ダゼットという名の金髪の美少年は、彼の同性愛的感情の対象として決定的な重要性をもつことになるだろう。
 やがて近隣のポーの高等中学校に転校したイジドールは、卒業してから一度モンテビデオに帰郷し、その後ふたたび渡仏して、今度はパリに住居を定めた。第二帝政も末期を迎えていた首都での生活は今なお多くの謎に包まれているが、作家を志して執筆活動に専念していたことは間違いがない。その果実として残されたのが『マルドロールの歌』という特異な散文詩と、『ポエジー』という、これまた不可解きわまりない二冊のアフォリズム集である。
 しかしあまりにも斬新なその言説は理解者を得られず、同時代の文壇からはほとんど黙殺された。そしてイジドール・デュカスはまったく無名のまま、一八七〇年に二十四歳で原因不明の死を遂げてしまう。彼の作品がアンドレ・ブルトンらに再評価されて文学史の前面に押し出されるのは、じつに死後半世紀を経てからのことにすぎない。
 南米からフランスへ、南仏の地方都市から首都パリへと地理的な移動を繰り返したあげく、世界でも類例を見ない過激な言葉の爆弾を社会に投げつけて消えたひとりの青年——束の間の光芒を放つ彗星のようなその生の軌跡には、研究者や専門家ならずとも大いに興味をそそられるところではなかろうか。少年時代に『マルドロールの歌』の毒にあてられて以来、尖鋭な暴力性と透明な抒情性を兼ね備えたこの詩人をこよなく愛し続けてきた私は、彼がたどった「越境と創造」のプロセスをたどりながら、厚いヴェールに覆われてきたその素顔に可能な限り迫ってみたいという願望を長年抱いてきた。
 このほどようやくこの願望に一応の形を与えることができて、ひと息ついている。執筆にあたって特に意を用いたのは、まずひとりの人物の評伝として面白く読めることだが、同時にまた、彼の作品が今日の私たちに投げかけてくる数々の問いの現代的な意味を解き明かすことにも、等しく力を注いだつもりである。まだ不十分な点も少なくないし、作業の過程で新たな課題が発見されたりもしたが、とりあえず今の私に書けるだけのことは書いた。「軽さ」が好まれる時代の潮流に反してかなり分厚く重たい書物になってしまったが、その点は御寛恕いただくとして、ロートレアモンという稀有な詩人に少しでも関心を惹かれた読者がページをめくる気になって下さればありがたいと思う。
(いしい・ようじろう 東京大学教授)

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