梶井基次郎・全集未収録書簡発表にあたって

梶井基次郎の手紙と写真と父のことなど

小西玄洋

「四五日前中学時代同学年だつた男で、今大学の英文科へ行つてゐる友達が不意に訪ねて来まして、あんまり思ひがけないので驚いたのですが……」と梶井を驚かせたうえ、「伊豆の踊子を案内記にして天城を越える積り」だった父小西善次郎と谷一郎は、昭和二年の十一月初めに、伊豆湯ヶ島温泉湯川屋に滞留中の梶井の前に姿を現した。
 陽性の大阪人だった父がいかにもやりそうな型破りの行動ではあるが、その突然の訪問が、今回の珠玉のような梶井の手紙を残す機会を用意してくれたことになる。
 梶井基次郎と父は、大正八年に大阪府立北野中学校を卒業し(卒業生総数百十五名)、梶井は三高へ、父は一高へと進み(ともに理科甲類)、双方ともに長い高校生活を送ったあと、梶井は五年後の大正十三年に、父は六年後の大正十四年に同じ東京帝大英文科に入っている。
 この間、二人の間にどのような交流があったか定かではないが、父が一つ話のように語ったのは、「一高・三高の対抗戦が京都であったときに、一校の制服・制帽で京都の街を一人で歩きよったら、『そこの一高生待ていっ!』言うて三高の連中に囲まれてしもうたことがあったんや。酒を飲んどるんもおるし、こりゃ殴られるかな……と思うて先頭のやつをよう見たら、なんとそれが梶井やったんや ……」というエピソードである。晩酌でご機嫌な父の口から、同じ話を繰りかえし聞いた記憶があるから、まずは事実に相違なかろう。二人は中学の五年間という黄金の時間をともに過ごした者のみが知る信頼と友情を抱きあっていたのではなかろうか。
 右頁の梶井の写真(HPでは省略)は、父の古いアルバムに大事そうに貼られていたもので、父が湯ヶ島へ梶井を訪ねた折に自分のカメラで撮影したものと思われる。昔風の黒い台紙に、ご先祖さまの写真から始まって、一高・東大時代の記念写真や友人谷一郎との旅行の写真、父母の新婚時代の写真など、少々畏まった感じの写真が整然と貼り込まれたこのアルバムのなかで、ドテラ姿の梶井の写真はひときわ異彩を放っていた。
 子供のころ私は、周囲とアンバランスなその写真のことが不思議でたまらず、「この土方みたいなオッチャンは誰なんや……」と父に尋ねたことがあった。すると父は書棚から『檸檬』の初版本を抜き出して「それは梶井という男や。ホラ、この本を書いた人や」と教えてくれ、その時初めて私は梶井という名前とともに、その難しく謎めいた書名の読み方を知ったのだった。
 父宛の梶井の手紙はその古いアルバムにひっそりと挟まれて保存されていた。母が肺結核で亡くなっていたこともあり、おそらく手紙に結核菌が付着していることを懸念してのことだろう、私たち兄弟がまだ幼かった頃、父はこの手紙をどこかにしまい込んでいたこともあったようだが、やがて手紙はアルバムの所定の位置に戻されていた。
 この手紙には後日譚がある。
 湯ヶ島での邂逅で話がまとまったのか、梶井と父と谷一郎の三人は、あくる昭和三年の正月三日、避寒のため熱海に仮寓していた川端康成宅に押しかけ、父と谷は二泊、梶井は五泊逗留した。ところが父たちが去った直後、川端宅に夜中泥棒が入り、床に就いていた川端夫妻がその泥棒を二階の梶井が降りて来たものと錯覚し、取り逃がしてしまうという事件が起きた。そしてその事件のあと梶井はそのまま東京に出て、しばらくの間湯ヶ島を離れてしまうことになった。
「梶井君はあれから四五日ゐました。七日の日かに泥棒には入られ、その後も気持が悪くて弱つてゐます」「梶井君一寸東京へ出たきり便りがないのでどうしたことかと思つて居ます」と、その間の消息を伝える一月十八日付父宛の川端の手紙が、梶井の手紙と一緒に残されている。
(こにし・げんよう 小西善次郎三男)

冒頭引用は全集書簡〔二五〇〕(川端秀子宛)。
谷一郎は小西善次郎の一高・東大の友人で、川端の熱心な愛読者だった。
なお、小西善次郎については書簡〔二五〇〕〔二六七〕に言及がある。


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