ミッキーかしまし特別立ち読み

image 二十代の始めから中ごろ、私はものすごく貧乏でした。フリーライターの真似事のようなものをしていたのだけど仕事も無く、当時手伝っていた喫茶店も儲からず、それで私は夜中スナックの皿洗いのバイトをしていました。ママは三十代後半の綺麗な人、お店は北新地の北通り。お客さんが来たらチャームといわれるおつまみを出したり、煙草を買ってきたり、テーブルを片付けたりする仕事です。チーフ、と呼ばれていました。ある日ママのお友達のママがお店にやってきました。その人はママとなにやら話していたのですが、次の日、もう一度お店にやってきました。「あんた、うちで働かへん?」スカウトでした。ホステスでスカウト、引き抜きというのは聞いたことがあるけれど、チーフでそんなことがあるなんて思いもしませんでした。私の、なんとなく哀れみを誘う貧乏臭さがいい、とのこと。ちょうどこちらの店は不景気で、私を雇うお金がなくなったということで、私は新しい店に移りました。そんなことが数回あって、私は「チーフ太閤記」のごとく、どんどん出世していきました。時給も少しずつ上がりました。でも、頼りにされると重荷になる、という従来の悪癖が働き、チーフ業も慣れたことだしと、新地を離れてミナミのスナックで働くことにしました。
 一応大阪では、新地が高級でミナミが庶民派、とされています。言い換えると新地は上品でミナミは下品。同じ大阪でそんなことはなかろうとタカをくくっていた私は、ミナミのその流儀に驚くことになります。私が働いていた店をGと呼びます。オーナーはアッチ系の人、だからよくアッチ系の人がいらっしゃいました。耳が人よりせり出しているからか、私はその人たちに「ミッキー」と呼ばれ可愛がっていただきました。ディズニーキャラクターのトレーナーに、サンタフェのジーンズ。足元はスリッポン。なんやスリッポンて。「え? コスプレ?」と思ってしまうような人たちが、「おうミッキーこれ取っとけ」とくれるおひねりは、どれほどありがたかったか。皆とても優しい方なのですが、酔うとものすごく声が大きくなり、感極まって「兄貴ぃ、わしらキチンとやくざやりましょやっ!」とか言うのでとても困りました。そんな店でした。
 オーナーは暇を持て余すと気まぐれに私を裏に呼び出して、お客さんそっちのけで話をしてくれました。ミナミでもう十年ほどお店をやっているということで、彼の中でミナミで知らないことはない、というのが自慢でした。ある日「ミッキーはどっか行きたい国とかあんのか?」と聞いてきました。出し抜けに、まったく暇つぶしの質問です。「はあ、行きたい国いうか、ニューヨークは一回行ってみたいです」お皿を洗いながら私がそういうと、オーナーは「にゅーよーく? あんなもん、北浜みたいなもんやろ?」と言いました。北浜、というのは、大阪の小さな小さなビジネス街です。ご存知の方は、北浜という街がどれだけニューヨークから程遠いかお分かりになりますよね。いくら行ったことのない私とはいえ、ニューヨークと北浜を一緒にしてしまう彼のおおらかさには度肝を抜かれました。いや、度肝を抜かれるのは早かったようですよ。彼は驚いている私に「世界中で一番すごい街教えたろか?」と言いました。嫌な予感がするけれど、まさか。でも、彼はやっぱり、こう言いました。「ミナミや、ミナミがいっちばんや!」彼の頭の中では、ミナミが世界一→ミナミで顔利く俺、世界一、という図式が出来上がっていたのでしょうね。ブラボー。
 ホステスの女の子たちを牛のように扱うのも、彼の得意とするところでした。お酒が残り二センチくらいになると、飲み干してボトルを入れてもらえるかもしれないので、水商売の世界では「チャンスボトル」というのですが、我らがGでは上から二センチ飲めばもう、チャンスボトル。オーナーは何度もホステスさんたちを呼び出し、何か分からないカラフルな錠剤を大量に飲ませ、「ほらっ行って来い!」と背中を押します。ホステスさんたちはどろどろになって席に戻り、また浴びるようにお酒を飲むのです。そんなホステスさんの姿を大変静かな目で見ている私に気づき、オーナーは、言うのです。「ミッキー、女の子らよう見とけよ。あの子ぉらはなぁ、闘っとんねや。水商売はなぁ、闘いや!」わあ。鼻息荒く安い台詞を吐き、ミナミで一番イコール世界で一番の俺、そう思っているオーナーを、私は驚嘆の目でもって眺めたものでした。
 彼は昼間ヤミ金をしていたのですが、法学部出身という私の経歴を聞いて、自分の昼間の仕事に私を組み入れようとしました。どえらいことになったと、必死で断っていると、世界一の彼はむっとしました。「なんでや? (世界一の)俺のお願いが聞かれへん理由があんのんか?」焦りすぎて二重になった私は、咄嗟に言いました。「夢があるんです!」そう、そのとき初めて、私は人に自分の夢を伝えました。
「小説家になりたいんです!」
 オーナーは股間を触りながら胡散臭そうな眼で私を見ました。「小説家なんかあれやろ? 電車マニアやろ?」彼の頭の中で小説家イコール西村京太郎さんです。その解釈は、決して悪くない。びっくりして一重に戻った私に、彼はたたみかけるように言いました。「よっしゃ、俺が小説家になれる技教えたろ」おやおや、世界一の彼は、なんだって知ってるようですよ。
「ミッキーこれからはなぁ、えっすえふの時代や」「え? SFですか?」「そうや」「でも、SFなんて難しくて書けません」「簡単や。自分がこうなったらええなぁ、こんな風やったらなぁ思うこと、それがえっすえふや! どらえもんなんて見てみい。あれがえっすえふや」確かにドラえもんは恐ろしいほど面白いSFです。なかなか良いこと言うなぁ、とあやうく感心しそうになりましたが、しなくて良かった。彼は続けます。「例えばな、俺な、優香好きやねん」「え?」「前歯小そうて、可愛いやろ?」「え?」「優香とエッチしたいなぁ、そうするためにはどうしたらええかなぁ、て考えるわけや」嫌な予感がするけれど、まさか。「それがえっすえふや」。
 サイエンスなんて、くそくらえ。私はミナミの王たる男が、前歯小そうて可愛い優香といかにしてセックスするか、という小説を、書き続けようと思います。「どや、俺、賢いやろ?」
 まれに、彼のように、「おおらかであるが、ものすごく視野が狭い人」は、存在します。私はそんな人を見るとものすごく驚嘆し、憧れ、嫉妬します。でもミナミ、Gの彼ほどの人には、まだ会ったことがありません。そして願わくは、会いたくありません。
 最後に、勇気を出して書きますが、店名は「Gブルー」です。電話が鳴り、「ありがとうございます、ジーブルーです!」と言うたび、私は、今、舌を噛んで死のう! と思うほど、羞恥に震えていました。
  • ミッキーかしまし <p><span>西</span>加奈子著
  • テヘランで生まれ、エジプトと大阪で育った若手人気作家「ミッキー」。その波瀾万丈、驚天動地、抱腹絶倒の日々を、奔放なイラストを添えて描く超爆笑エッセイ!
  • ミッキーかしまし

    西 加奈子 著
    定価1,365円(税込)

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著者近影
西 加奈子
ニシ カナコ
1977年、テヘラン生まれ。エジプトで育ち、大阪で生活してきた。関西大学法学部卒業。2004年『あおい』(小学館)でデビュー、2005年『さくら』(小学館)がベストセラーになる。その後、2006年『きいろいゾウ』(小学館)、『通天閣』(筑摩書房)、2007年『しずく』(光文社)、『ミッキーかしまし』(筑摩書房)などを発表している。「webちくま」にてエッセー「ミッキーかしまし」を連載中。
(著者近影:坂本真典)

webちくまにて好評連載中