1977年に完結したレオン・ポリアコフの『反ユダヤ主義の歴史』全五巻はこの歴史研究の領域では最初の、そして今のところ最新の網羅的な「反ユダヤ主義通史」である。
 それまでも19世紀末のベルナール・ラザールの『反ユダヤ主義の歴史と原因』、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』、ノーマン・コーンの『シオン賢者の議定書』、ミシェル・ヴィノックの『フランスにおけるナショナリズム、反ユダヤ主義、ファシズム』のような卓越した研究書は存在したが、キリストの時代から〈ホロコースト〉までを通史的に概観した史家はポリアコフをもって嚆矢とする。
 私は一時期フランスにおける反ユダヤ主義の歴史を集中的に研究していたことがあり、そのときにはずいぶんこの本のお世話になった。私の手元にある本には赤鉛筆で引かれた無数の傍線が残されている。
 そのような好著がこれまで訳出されなかったのは、「反ユダヤ主義の歴史」という研究領域そのものがマイナーであったことがとりあえずの理由だと思われる。だが、私自身は、この領域についての研究は日本人が「ヨーロッパ文明」に伏流する「地下水脈」のようなものに触れるためには必須の作業ではないだろうかと考えている。
 だから、今回この浩瀚な著作の邦訳が筑摩書房から刊行されることになったのを私はたいへんうれしく思っている。この邦訳をきっかけにして反ユダヤ主義研究に進む若い研究者がきっと何人か出てきてくれるだろう。そのような将来の研究者世代のための足がかりを残しておいてくれたという点で、この翻訳事業は学術的に大きな意味を持つものだと思う。
 訳者の合田正人さんはレヴィナス、ジャンケレヴィッチ、ベルクソンなどユダヤ系哲学者の研究で知られている通り、ユダヤの精神文化に深く通じており、菅野賢治さんは思想史の方法によって、近代反ユダヤ主義を生み出したヨーロッパ社会の政治的・文化的なひずみについてすぐれた研究を残している。この二人はこの領域の訳者としては現在望みうるベストの布陣と言ってよいだろうと思う。大きな仕事を日本の読者と後続する研究者世代のためになし遂げてくれた二人と(おそらくビジネス的にはあまり楽観を許さない)出版を敢行した筑摩書房の見識にあらためて敬意を表したい。

(うちだ・たつる 神戸女学院大学教授・フランス現代思想)

1 キリストから宮廷ユダヤ人まで
菅野賢治訳

古代から初期キリスト教の時代における反ユダヤ主義の歴史的起源を検証、十字軍にともなう最初の大規模な迫害、ペストの流行とユダヤ人虐殺などを経て、ゲットーの時代に至るヨーロッパまでの歴史をたどる。

2 ムハンマドからマラーノへ
合田正人訳

イスラーム世界のユダヤの歩みを展望。異端審問・追放令など、スペインを襲った反ユダヤ主義の大波を克明に描き、歴史に残した爪痕を省察する。

3 ヴォルテールからヴァーグナーまで
菅野賢治訳

イギリス理神論者、およびモンテスキュー、ヴォルテール、ルソー等フランス啓蒙思想家たちのユダヤ観を克明に検証、人権宣言による解放の流れから、マルクスをへて巨魁ヴァーグナーへ至る近代史の巨大なうねりを描いた圧巻。

4 自殺に向かうヨーロッパ
小幡谷友二・高橋博美・宮崎海子訳

1870年代ドイツの反ユダヤキャンペーン、ドレフュス事件などフランスを揺るがす出来事、ロシア革命、ポグロム、さらに第一次大戦からナチスの絶滅計画に至る熱狂の時代のヨーロッパ史。

5 現代の反ユダヤ主義
小幡谷友二・高橋博美・宮崎海子訳

第二次世界大戦下のジェノサイドからニュルンベルク裁判を検証、今も消えぬドイツの反ユダヤ主義をはじめ、現代世界の状況を広大なパノラマのもとに描く。
現代史を考えるための必読の一冊。