やみくも ──翻訳家、穴に落ちる 鴻巣 友季子 著
鴻巣友季子エッセイ集『やみくも 翻訳家、穴に落ちる』が 刊行されました。 好評発売中です。 刊行一週間後に開かれたトークショーでは、エッセイの面白さ、翻訳家・鴻巣友季子 の魅力が存分に発揮されました。その模様を一部お伝えします。
「今日のテーマは、女子です」
開始予定時刻の午後7時を少し過ぎて始まったトークショーは、ABC(青山ブックセンター)六本木店の間室さんの歯切れのいいひと言で始まりました。
彼女は、『やみくも』を読んで、つくづく鴻巣さんは女子である、と感じたのだそう。たとえば、
「暴力弁当。これ、すごいですよね。暴力と弁当が組み合わさるなんて」
女子中学生にとって見られるのが恥ずかしい弁当とはどんな弁当か。エッセイは、ある女性作家のトークショーで出たそんな話から、『赤毛のアン』でマリラが用意した「暴力弁当」のこと、ネットで話題の虐待弁当にまで話が進む。
「だって中学の時のお弁当の話ですよ。それをずっとひきずっているなんて」
「男の人とは、そのへん感性が違いますよね」
と鴻巣さん。
しかしこの女子は、並の女子ではないので、活動範囲が広いのである。
「このエッセイの最後に、なんだこれは?と思った弁当は、セビーリャの鰯弁当、とあって、この話はまたいずれ、で終わっちゃっているのですが」
気になります、と間室さん。
「それは、そのあとに出てくる迷宮というエッセイに繋がるんです」
「迷宮」は、セビーリャに実在する。
「みなさん、エル・ブジってご存じですか?」
バルセロナにあるレストラン。一世を風靡したフェラン・アドリアという名シェフの店で、数ヶ月先まで予約で一杯という伝説の店である。
そのエル・ブジがアンダルシアのセビーリャにレストランを建てたらしい、という情報を察知した鴻巣さんは、
「ちょうど嵐が丘の新訳をやっていて、イギリスに取材に行くことになったので、ついでに」
イギリスから、フランス、モロッコ、スペインへ、と足を伸ばした。「ついでに」にしては、すごい移動距離ですが。
この行動力のすごさは、エッセイ集の随所になにげなく現れる。
「モロッコから船で渡って陸路何時間もドライブしてやっと着いたら、こんなところにあるわけない、としか思えない場所で」
それらしきものはまるで見えないし、ありそうにも思えない。のんびり子どもが道路でキャッチボールをしていて、村人に英語は通じない。さんざん苦労して聞きまくって、やっと見つけたそのレストランが、「迷宮」だった。
「そもそもはアラブの寺院だったものが、その後スペイン貴族に買い取られて荘園に、その後も所有者が何度も代わって、最後にフェランが買い取ったというんですね。建て増しを繰り返してその度に所有者の好みも加わっているので、もうすごいんです。そして全部が真っ白。私は何度も迷いました」
建物のあちこちに電話があり、迷った客がそれで助けを呼ぶとレスキューが現れる。
庭園も6つあって、ロックガーデンの隣に果樹園があり、その隣はエキゾチックな花畑、といった様相。
鰯弁当は、その迷宮から出発する日のランチだった。
「帰りがけに、道中長いので軽く腹ごしらえをしたいと思って、パッとできるものはないかと聞いたら、これなんかいいよ、と進めてくれたのが、鰯でした。サーディン・ウィズ・なんとか、と書いてあってシェリーに合いそうだなと思って、イベリコ豚とそれを頼んだんです」
当時まだ日本で解禁されていなかったイベリコ豚を思うさま食べ、シェリーを飲んだところで、
「庭園のしたたる緑陽の向こうから、給仕の白いスーツを来た人が、お盆をひとつ捧げ持って来るんです。ああ、わたしの料理が来た、と思ったら、目の前のテーブルに麗々しく」
コトンと置かれたのが、その鰯料理。
その暴力ぶりとは、果たして?
トークで大いに盛り上がったこの話は、ネタばれになるので控えさせていただきます。
ヒントをひとつ。彼は「手つきも鮮やかにキコキコキコと開けてくれた」そうです。
トークはその後も、村上春樹シンポジウムの話などで大いに盛り上がり、サイン会を経て、楽しく散会となりました。
「どうして鴻巣さんの周りには、こうも不思議な出来事ばかり起こるのか?」と言ったのは、この本のカバーから全体にわたってイラストを描いてくれた、さげさかのりこさんです。対する鴻巣さんの答えは、「私にとっては普通のことを、素直に描いているだけなんだけれど」でした。
ぜひとも、エッセイを手にとって、「どうして」の謎を解いてください。
そして、鯖弁当の暴力性についても、答えを見つけていただければ幸いです。
(文責・編集部)
異文化探究の志強い翻訳家の性は、見慣れぬもの・異質なものにふらふらと吸い寄せられ「穴に落ちる」性でもある。
気鋭の翻訳家による虚々実々の寄り道エッセイ。
やみくも
──翻訳家、穴に落ちる
鴻巣 友季子 著
鴻巣友季子(こうのす・ゆきこ) 東京生まれ。英語文学翻訳家。お茶の水女子大学修士課程在学中より翻訳・文筆活動を開始。J.M.クッツェー『恥辱』、T.H.クック『緋色の記憶』、M.アトウッド『昏き目の暗殺者』、ルル・ワン『睡蓮の教室』など、手掛けた翻訳書は50冊以上。2003年刊行のE.ブロンテ『嵐が丘』の新訳が大きな注目を集め、同年、初のエッセイ集『翻訳のココロ』(ポプラ社)を刊行する。以後、評論、エッセイの場にも活躍の幅を広げている。他の著書に『明治大正 翻訳ワンダーランド』(新潮新書)。