第39回太宰治賞

第39回太宰治賞 贈呈式が行われました


6月16日(金)、一ツ橋・如水会館にて、第39回太宰治賞(筑摩書房・三鷹市共同主催)の贈呈式が行なわれました。


最初に、三鷹市の河村孝市長が主催者挨拶を行ないました。


「太宰治賞は今年で第39回を迎えまして、三鷹市と筑摩書房の共催というかたちになってから25回目となるわけですが、おかげさまで多くの有望な新人作家を輩出することができました。


現在、三鷹市美術ギャラリーで「三鷹の此の小さい家」という展示を開催しています。これは、一般に三鷹というと太宰治が亡くなった場所というイメージが強いのですが、一方で、三鷹で生きたというか、もっとも多い作品数を書き、充実した作家活動を送った場所でもあり、この太宰との深く濃い関係を三鷹のまちづくりと絡めて表現できないかという企画意図で、太宰の住んでいた家を再現したんです。行かれるとみなさん驚かれるのですが、二間の本当に小さい家なんですね。そこに奥さんと子供三人の五人で住まれていた。以前、太宰治賞の選考委員でもあった加藤典洋先生も書かれていましたが、太宰はここですごく幸せな家庭を持ったと思うんです。人生のなかでいちばん充実した時期で、だから多くの作品も書けた。ちなみに芥川賞を受賞された又吉直樹さんが東京に出てこられたときに住んでいたアパートというのは、この太宰の家の跡地に建てられたものなんですね。又吉さんも、後から知って驚いたと言われてましたけど、すごく濃い文学的な縁で結ばれている、三鷹という街はそういう場所なんだと思います。


また、太宰治文学サロンという施設も運営しているのですが、そこは太宰さんがいつもお酒を買いに来ていた酒屋さんの跡を改装して、市民のみなさんと一緒にブックカフェとして展開しています。このように、街のなかに、この店に来ていたとかここをよく通ったとか、太宰さんの足跡がたくさんあるんです。それを観光ガイド協会という組織で市民のご協力をいただいて「太宰の生きた街」としてあらためて紹介しているんですね。


三鷹市と筑摩書房の太宰治賞の共催が始まったのは、前々市長の安田養次郎さんの時でしたが、そこから前市長の清原慶子さん、そして私と三代つづけて、「太宰治の生きた街・三鷹」への思いをつないできたと感じています。


受賞者の方にも、ぜひ文学の街・三鷹を味わっていただいて、小説の糧にしていただければと思います。」


続いて、筑摩書房・喜入冬子社長が挨拶を述べました。


「本日は、ご多忙のなか、たくさんの方々に第39回太宰治賞贈呈式にお集まりいただきありがとうございます。受賞されました西村亨さん、おめでとうございます。選考していただいた選考委員の皆様にも感謝申し上げます。


さて、2019年末に武漢で最初の罹患者が見つかり、2020年1月に日本でも最初の感染者が出て以来、三年以上に亘って世界をパンデミックで覆った新型コロナウイルスですが、ようやく落ち着いてきて、コロナ前の日常が戻ってきつつあると感じられるようになりました。もちろん、まだ感染の危険がなくなったわけではありませんし、重篤化の危険もあるわけですが、目に見えない、正体不明の感染症に襲われるという恐怖からはだいぶ解放されたように思います。


そのかんやっていけないことの筆頭とされていたのが大人数での立食パーティーだったのですが、おかげさまで今日は四年ぶりに開催できることになりました。新しい作家の誕生を、飲んで食べて皆様におおいに祝福していただければ幸いです。


昨年の贈呈式はまだパーティーはできなかったのですが、そこで新型コロナの特需という話をさせていただきました。ひとと会えない、外にも出かけられないという状況で、人々が本を手にする機会がたしかに増えたように思います。1996年以来、右肩下がりがつづいてきた出版市場がコロナ禍の三年で少し上向きになりました、ということをお話ししたのですが、一年経って、コロナが鎮静化してきたら、残念なことに、また本が売れなくなってしまいました。


とはいえ、社会がまったくコロナ以前に戻ったかというとそうでもなくて、良くも悪くも急速にデジタル化が進み、会議やイベントがネットオンリーあるいはネット併用で行われることが普通になりました。ネット通販も拡大し、見知らぬひととネットで交流するのは平気でも対面はちょっと、という若者も増えている気がします。こういったコロナ禍、コロナ後の様相を小説はじつに絶妙に掬い上げていくんだなと今回最終候補となった四作を読み、また選考会での議論を拝聴していて感じました。


自分一人の経験には限界がありますけれども、小説を通してひとはさまざまな思いがけない経験をすることができます。そのことで世界がそれまでとは変わって見えたりもします。それがひとの想像力の元になるのではないかと思います。小説に限らず、本というものにはそのような密度の濃い情報がコンパクトに詰まっています。本という大切なメディアを、右肩下がりの状況に抗して、今後ともしっかりと出しつづけていきたいと考えております。


新しい書き手を世に出せることは出版社にとって大きな喜びです。この太宰治賞からは選考委員をお務めいただいている津村記久子さんをはじめ、多くの作家がデビューし活躍されています。西村さんが今後おおいに活躍されることを祈念し、またここにお集まりいただいた皆様がご健勝で、今後ともたくさん本を読んでくださることを期待申し上げて、私のご挨拶とさせていただきます。どうもありがとうございました。」


引き続いて、選考委員を代表して津村記久子氏が選考経緯について述べられました。


「選考委員として初めてのスピーチをします。大変緊張しています。内容を忘れてしまうので、紙を持ってきました。すみません。


選考経過についてお伝えくださいということを頼まれました。自分は、太宰治賞の最終選考の審査をするようになって五回目なのですが、今回はとてもスムーズだったなと思いました。選考は、選考委員のみなさんが、それぞれの作品について四人四様の所感を述べる形で進行するのですが、それぞれの作品について最初に所感を述べるのは、一人一人持ち回りで違っていて、自分はその「最初に感想を言う人」が回ってくるとやはり緊張します。誰の意見も参考にできず、まずは自分自身の所感を提出しなければならないからです。自分が今回最初に所感を述べたのは、今回の受賞作「自分以外全員他人」でした。


どれもおもしろかったけれども、この作品はそれに加えて抜群に共感したので、もう「津村さんってそんなに自転車置き場のことばっかり考えてるのか……」とその場にいる人たちからあきれられてもいいから思い切り所感を言おうと思いました。この作品のおもしろさを考えると当然のことではあったのですが、お話をうかがっていくと、審査委員のみなさんそれぞれに、この小説に対して「とてもよくわかる」というところがあったのが、当時は大きな驚きでした。


他の三作品もおもしろかったということも、選考の円滑さの助けになっていたと思います。どれも個性的な、今小説を書きたい人はこんなことを考えているんだなあ、という勉強になる作品でした。闇バイトのニュースを見るたびに「魚の名前は0120」の主人公の仕事のことを思い出すし、「肖像のすみか」の喬某(チャオモウ)に似たことをこれから始めてやろうかと思うこともあるし、「コスメティック・エディション」の「夢持てハラスメントな」というフレーズを口走りそうなこともあります。


「自分以外全員他人」において、選考であまり主張できなかったけれども、個人的に秀逸だと思ったのは、主人公と母親との距離感です。「親切にするけれども人には踏み込ませない。仲良くなりそうになると離れる」といった、母親世代の敢えて一貫性のない自称処世術のようなものに混乱させられ、傷つけられる子供の世代の女性の話はよく耳にしますが、女性に限らずみんなそうなんだなあと思いました。この作品での主人公と母親との関係には、暴力や虐待といった目に見えるものでこそないものの、「誰かの子であること」の普遍的な拭い去れない苦しみがあるといって良いのではないでしょうか。


受賞作品は、新型コロナウイルスの感染拡大以降の個人の実感をとてもおもしろく詳らかにしている、という現代性もありながら、不器用で好感の持てる人物ではないけれども、働いて家族を養ってきた義父への、悲しい共感のような素朴な心持ちも底に流れていて、その人間性のようなものが何か、非常に上手に今を切り出してみせるということに加えての、作者への信頼につながったのではないかと思います。」


表彰状、正賞及び副賞授与のあと、西村亨氏が受賞の挨拶をしました。


「このたびは、私の小説を受賞作に選んでいただき、誠にありがとうございます。そしてこのような素晴らしい場にお招きいただいたこと、重ねてお礼申し上げます。 


今年の三月の初めごろまで、春になったら自転車で旅に出て、どこか適当な場所で野垂れ死のうと本気で考えていたので、今ここにこうして立っているのが、とても不思議な気持ちです。


昔からずっと、早く死にたいと思いながら生きて来たんですけど、最終候補に残っているという連絡をいただいてから、ゲラをもらい修正作業をしているあいだ、毎日がとても充実していて、こういう時間をもっとたくさん味わえたら、生きるのもそんなに悪くないんだろうなと考えているうちに、いつのまにか、死ぬ気も、労働意欲も完全に失ってしまっていたので、今回受賞させていただくことができて本当に良かったです。


受賞前は、もし受賞できたら、きっといつになくテンションが上がるんだろうなと思っていたんですけど、いざ受賞の知らせを受けた時は、喜びよりも安堵の方が強くて、嬉しいというより、助かった、という思いでした。なんとか命拾いした、という感じで。家族や友達や知り合いに報告して、祝福されても、あまりピンとこなくて。一度本気で自殺を考えたから、自分はおかしくなったんだろうか、心が不感症になったんだろうかと思っていたんですけど、次の日、三鷹市さんのホームページに載っていた、選考委員の先生方のコメントを目にした時、初めて素直に嬉しいと感じることができました。こんなダメ人間のみっともない話、きっと酷評されるに違いないとビクビクしていたので、自分の拙い文章を読んでいただいたうえ、好意的な感想までいただけたことがとてもありがたかったです。中でも津村記久子先生の「多くの人が共感し、救われるのではないかと感じた」という言葉には、ぐっとこみ上げるものがありました。私も小説に救われて生きて来た人間なので、そうなってくれたらとても嬉しいです。


18歳の頃に、初めて人間失格を読んだ時の衝撃は、今でもはっきりと覚えています。それまでずっと隠してきた自分の秘密を暴かれたような、恥ずかしさと恐怖と、でもどこか慰められるような、初めて自分と同じ人間に会えたような、お前は一人じゃないんだと励まされているような気持ちがしました。それが無かったら、僕はいまだに自分の本当の気持ちを隠したまま、偽りの人生を送っていたように思います。


太宰治という人が、その昔、自分の恥をさらけ出してくれたから、今の自分はあるんだと思います。人と上手く関われなくても、世間に受け入れられなくても、一人じゃないんだという思いが、自分をここまで歩かせてくれました。


これは別に気取った比喩というわけではなくて実際に、iPhoneのボイスレコーダーに自分で朗読して吹き込んだ人間失格を聴きながら、なんとか外を歩いていたという時期もありました。しかも十代とか二十代の若い頃の話じゃなくて、四十過ぎてからの話で、それくらい、いくつになっても生きるのが下手で、何も上手く出来なくて、でもだからこそ、誰かのみっともない恥が、誰かの心の支えになることがあることを、身をもって知っているつもりでもあります。その気持ちを忘れずに、これからも書いていきたいです。


今まで死ぬほど恥をかいてきて、それこそもう少しで本当に死ぬところだったので、ギリギリのところで救われたこの恥の多い人生の、あまり多くはない残りの時間を、願わくは、これから、誰かの慰めや救いのために使っていくことができたら、こんなに嬉しいことはないです。


本日は本当にありがとうございました。」


そのあと、四年ぶりに記念パーティーが開かれ、酒食を愉しみながらの列席者の懇談の輪が多々広がって、和やかな雰囲気のうちに散会となりました。


*選評と受賞作、それに最終候補作品は『太宰治賞2023』にて読むことが出来ます。