メッセージ

三浦しをん  意図が見えない


 その感情や出来事を経験しなかったひとにも、的確かつ深く伝えるための仕掛けが「物語」であり、「物語」を、研いだ文章という手段で表現するのが「小説」なのではないか。と考えたりしながら、四作を拝読した。
『大学半年生』は、物語をしようという意志は感じられるが、文章があまりにもまわりくどく、もったいぶっている。特に、「その」の多用を控えたほうがいい。「その」って、「どの」だ。わかりにくい。「マグカップを二つ抱えた」というのも、どんだけ特大のマグカップ二つなのかと思ってしまう。細かい言葉選びに留意し、文章を磨けば、作者の持っている繊細な感性が、より輝いてくるはずだ。
『ひょうたんのイヲ』は、水俣病というテーマに正面から切りこみ、読者を物語に惹きこむ力がある。熱い魂を持った作品だ。ただ、ラストに唐突感があるのが惜しい。唐突感の原因は、おおまかに言って二つあると思う。
 ひとつは、構成がよくないということ。主人公がバレーボールに取り組む設定なのだから、これをもっと物語に絡め、活かした形でラストへ持っていくことも可能ではないだろうか。もうひとつは、主人公がどの地点から物語っているのか(作中の時間が「現在」なのか、作中の時間を「過去」として振り返っているのか)、曖昧であること。読んでいてブレを感じるので、ラストの「美帆」の連呼にやや鼻白む。完全な「現在」ならば、「そこはそれ、女心というものなのだろう」といった、おっさんくさい通り一遍の書きかたは徹底的に排除するべきだし(話者は中学生なのだから)、「あいたたた」や「やばい」といった時代にそぐわぬ表現もやめたほうがいい。中学生男子の心情と視点に寄り添いきれば、ラストの連呼も活きる。そうではなく、「過去」として回想する含みを持たせるのであれば、今回のラストよりももっと先まで書くべきだろう。水俣の痛みや、それでも生きていく人々の強さが、そのほうがより現在の読者に伝わると思うからだ。
『ヘラクレイトスの水』は、文章が危なげなく、作品として一番まとまっていた。ともすると、主人公の女にとって都合がよすぎる話になってしまいそうなところを、作者は絶妙の客観性と手綱さばきで、うまく展開させる。主人公が意中の男性に、意外な理由で告白を受け入れてもらえなかったシーンなど、「へっへっ、そうは問屋が卸さねえってやつだな」と、私はほくそ笑んだものだ。登場人物がみな、そこはかとない色気を纏っているところも、とても魅力的でいい。劇的に感情や物語が変転するわけではないのだが、静けさのなかに謎解きとサスペンス要素があり、「ちゃんと伏線を回収して話を落着させられるんだろうか」とハラハラさせられるスリルまでもが、もしかして作者の意図どおりなのではないかと思わされるほどだ。作品が「小さい」という、ほかの選考委員からのご指摘があったが、私は小ささを丁寧に積み重ねて展開していく力に、物語をしようとする作者の意志を強く感じた。よって、この作品を一押ししたのだが、受賞に至らなかったのは私の力不足だ。作者には大変に申し訳ない。どうか、すぐに諦めることなく、今後も書いていっていただきたいと切に願う。
 書くうえで、気をつけたほうがいいのではないかと思うのは、既存の文学作品などから固有名詞を持ってきすぎることだ。作品の核、象徴になるような引用をしてはいけないとは言わないが、せめて一作程度にしておくべきだろう。それも、嫌味や気障にならぬよう、未読の読者にもわかりやすい形で、さりげなくやらなければいけない。たとえば、「熱に冒されたロゴージンと、恍惚の公爵のように頬を寄せ合って」などと、いきなり言われてもたじろぐ。「すいません、これ、なんの話に出てくるんですかね」と、世界の名作に疎い私は、選考会の席でほかの委員のかたに教えを請うた。居たたまれぬ。非常に重要なシーンであるのに、「ロゴージンってだれだ。恍惚の公爵とやらが飼ってる亀かなんかの名前か?」と思っちゃうものにとっては、比喩の意味がまったく不明になってしまう。こういう箇所は自分の言葉で書かねば、作品にとって大きな損だ(選考という場において損だという意味ではない。作品の質という観点と、読者に対する態度として、損だという意味だ)。
『だむかん』については、選考委員のあいだで議論をつくした。私がこの作品を推すのにためらいを覚えた理由は、二つある。ひとつは、主人公の都宮がどういう人物なのか(性格、バックボーン、どうやらモテないらしい自身をどう思っているのかなど)が、いまいちよくわからなかったから。もうひとつは、構成に失敗していると思えたから。そしてこの二つはどちらも、「作者の無自覚」に端を発しているのではないか、という疑念を拭いきれなかった。
 まず、都宮について。彼を「冷淡・冷酷」なのだとする意見もあり、それにうなずけなくもないが、単に都宮が「無神経かつ人間関係に不感症」なだけのような気もし、作者がはたしてどちらの意図を持って登場人物を描いたのか、作品からうかがいきれない。これが、人物描写もストーリーもなんとなく中途半端でどっちつかずな原因なのではないか。たとえば、都宮は自身を「フェミニスト」だと数回言うが、フェミニストを「女に優しい」の意だと勘違いしているうえに、その優しさがてんで見当違いだ。都宮があえてまちがった解釈をしてみせているのか、都宮が本当に解釈をまちがえているだけなのか、都宮も作者もまちがった解釈をしているのか、なんかもうすべての意図が見えないのである。つまり、作品に作者の神経が行き渡っていないように、私には思える。
 構成面では、「ダム管」で働く叩きあげの面々とエリート都宮との軋轢と葛藤が主軸になるのかと思いきや、なんとなく腰砕けのままダム放流に至る。『踊る大捜査線』や既存のクライム・サスペンス小説のような展開を予期して読んでいたものとしては、肩すかしの気分だ。しかし、ではほかの読みかたをしようと思っても、都宮が都宮なものだから、どうにも取っかかりがない。作者自身が、『踊る大捜査線』や既存のクライム・サスペンス小説のような展開を目指して書いたのか否かも、これまた中途半端で意図が見えず、判断の下しようがない。とはいえ私は、都宮は単に無神経なのであり、作者はクライム・サスペンス小説のような展開を目指したものの構成に失敗したのであり、両方があいまって中途半端な読み心地なのだろう、と勝手に判断したのだが。私の読みちがいという疑いも自分でも捨てきれず、ダム管理所という閉鎖的な職場でのあれこれが詳細に描かれ、職業小説としてのおもしろさは確実に宿しているので、本作を受賞作とすることに、もちろん否やはない。