筑摩書房 INFORMATION&TOPICS

 2009年10月24日(土)、新宿区早稲田奉仕園にて、弊社新シリーズ「双書Zero」の創刊を記念し、姜尚中、本田由紀、澁谷知美、中島岳志の諸氏をお招きして、『「生きづらさ」から日本を見る』と題するシンポジウムを行いました。

 今回はその第2回、完結編です。
 第1回はこちら

第2回 どんな人でも「大丈夫そう」と言える社会へ

――仲間、制度、ポップカルチャーの可能性


政治と文学


中島:空気を読み合う今の社会で関係性の大切さを訴えることは、人間力に自信がない人を追い込むことになるという考えはわかります。しかし、制度によって関係性の問題を解決していくのは危険だと思うんです。


 僕も丸山眞男を引きますが、『現代政治の思想と行動』第3部のタイトルは「『政治的なるもの』とその限界」です。そこで丸山は、政治学にとって重要なのは、政治によって何が変わるのか、どこまで踏み込んではならないかを考えることであり、そのラインを見極めなければならないと書いています。そのラインを間違えると、ファシズムを生む、と。これは重要な指摘です。

 かつて福田恆存は、「政治と文学」論争がなされていた時に、「一匹と九九匹と」というエッセイを書いています。世の中の99匹の迷える子羊を救うのが政治の役割であり、そこからどうしても漏れてしまう1匹の子羊を救うのが文学である。この位相の違いを間違えると危ない、と福田は言います。だから、福田や小林秀雄にとって否定すべきは、プロレタリア文学になるわけです。というのも、文学に政治的な主張を込め、それによって政治を動かそうとするのは、文学の退廃にほかならないからです。文学は、政治では解決できない実存の問題を追究するべきなんです。安倍前首相は「美しい国」というスローガンを掲げ、政治の美学化を図りましたが、こうした動きに対して危機感を持たなければなりません。

 先ほど姜さんがおっしゃった絶対的な疎外に対して、政治は無力です。むしろ無力であるべきだと思う。そこは文学の領域です。




















:僕がいま懸念しているのは、もし民主党政権が早い段階で崩壊したり、現政権が退陣したりした場合です。自民党にも民主党にも期待できず、政党政治それ自体に対し、イエローカードが突きつけられる。そんな事態になったら、超法規的な改革を推し進めようとする個人や集団を、アトム化した国民が熱狂的に支持する可能性があります。それを警戒しなければならない。


 僕は熊本の出身ですが、すぐ右隣の県には、いつ国政へと打って出るか、その機会を虎視眈々とうかがっている知事がいる。大阪にもいますね。脅しではなく、いま日本は政治の分岐点に差し掛かっていると思う。

 満州事変の時を思い起こしてみても、いいでしょう。当時の外相は幣原喜重郎で、国際協調路線に立ち、中国に対しては内政不干渉という方針で臨んでいました。ところが強硬派が暴走し、メディアも国民もそれに熱狂した。こうして戦争へと突入していったわけです。この一事からも分かるように日本は、極端な方向へと突き進みかねない。この先もし、政治から見捨てられたと感じる人が増えてくるならば、それと同じことが起きかねません。


中島:あるいは鳩山政権が続いても、生活水準が低下したままかもしれない。そうした時にオルタナティブを見出せず、閉塞した状況を打ち破れなければ、国民の間でシニシズムが強まってくる可能性があります。姜さんが言うような暴走が始まってしまうかもしれない。


 いまや多くの人が新自由主義的な政策を支持しておらず、与野党ともにセーフティネットの整備などを喫緊の政策課題としています。このため、各党とも違いを打ち出せなくなっている。すると、どうなるか。ヨーロッパの事例を参照すると、新自由主義的な政策プランが破綻した時、多くの右派政党は、世論を惹きつけることのできる、価値観にかかわるイシューを打ち出すようになりました。それと同じで自民党も、夫婦別姓や外国人参政権、死刑制度など、国民の関心を惹起しやすいイシューばかりを提示するようになるかもしれない。その時、国民がそうした話題に熱狂してしまうのが怖い。

 僕は大阪の出身ですが、大阪に戻ると橋下知事の批判をするんです。すると、おばさまたちに「橋下さんは、頑張っている!」と怒られる。いくら頑張っていても、その方向性が間違っていたら駄目でしょうと言っても、聞き入れてくれない。

 こうしたなかで、「朝日平吾の鬱屈」を再び生み出さないために何ができるのか、これからも考えていきたいと思います。
 それではパネリストのみなさん、最後に一言ずつお願いします。


「理想の世界じゃないけど、大丈夫そう」と言える社会


澁谷:「あなたがいいと思う社会は、他の人にとってもいい社会ですか」と、愚直に訴えていくしかないと思っています。夫婦別姓の話が出ましたが、2007年に発表されたおもしろい調査があるので紹介します。


 二つ質問があるのですが、まず一つ目の質問では「姓を変えると、いままでの自分が失われたような感じを持つ」という人が約10%、それ以外の答えの人が約90%いることが明らかになりました。そこで、それ以外の答えの人に二つ目の質問をします。「姓を変えると、いままでの自分が失われたような感じを持つ、そのような人がいると思いますか」。すると、その約45%が、「そんな人がいるとは思わない」と答えたんです。「姓を変えると自分が失われた感じがする」10%の人たちのことが見えていない。

 このようなときによく「必要なのは想像力だ」と言われますが、あえて私は、「想像力はいらない」と言いたい。必要なのは、「事実を認知する力」です。それで十分。既存の制度では困る人が10%いる事実を認知してもらい、その上で、この10%を切り捨てる社会はよい社会ですか、と地道に問うていくしかないと思います。


本田:私も、ロマン主義やシニシズムは嫌いです。そして、仲間のなかでまったりするのも、嫌いです。私は、自分の身の回りの現実を見渡して、微力でもいいから、自分たちの力で変えられるところは変えていくことが必要だと思っています。


 現代社会の大きな敵は「自己責任」論です。この敵に抗うためには、うまくいかないのは自分のせいだと考えたりせず、いったんは「社会がおかしい」と言い切ってみる。ただ「おかしい」と言うだけでなく、この社会の何がおかしいのか考えてみる。そして、そのおかしさを改善するために何ができるのかをはっきりさせ、実践していく。「自己責任」ではなく、「自己の社会的責任」。ぜひ皆さんには、そういう発想を持ってほしい。「シャカイ系で行こう!」ということです。

 京都女子大学の筒井美紀さんが、大学生が受けるべき教育はキャリア教育ではない、彼らを「事実漬け」にすることこそ重要だと言っています。私も同感です。やりたいことを見つけて、人間力をつけて、勝ち組になろうという教育では駄目。大学生には、事実を突きつけることこそ必要です。例えば、「非正規雇用はこんな低待遇で働いている、あなたはそれをどう思う?」と、事実をバン!と示していくことが大切だと思う。


中島:本田さんがおっしゃることは、その通りだと思います。その上で、あえて僕の核心部分を述べますと、人間は合理的な生き物ではない。計算通りにはいかないところがあります。それこそが人間の人間たる証です。合理的な対処だけでは、苦しみから救われない人が必ず出てしまう。だからこそ僕は、ロマン主義に向き合いたい。


 承認問題も含めた政治では解決できない「生きづらさ」について、どうして僕は、文学なら救えるかもしれないと思うのか。再び秋葉原事件に戻りたいのですが、犯行前のK君に、一瞬、届きそうになった言葉があります。それは、バンプ・オブ・チキンの「ギルド」という歌の歌詞です。


 事件の3日前、職場で作業着がなくなって暴れた直後、K君はバンプの「ギルド」の歌詞を2回書き込んでいます。もしかしたらその歌詞が、最後に届きそうになった言葉かもしれない。だから、K君のような鬱屈を救えるのは、文学かもしれないと思うんですね。


:私も、社会の事実を突きつける「シャカイ系」であることが自分の職務だと思っています。本田さんに共感します。と同時に、中島さんがおっしゃる文学の可能性も無視できません。それぞれの時代には必ず、その時代を生きる若者の典型像が描かれた青春小説がありました。夏目漱石の『三四郎』は、急激に変化する社会のなかで、迷い子のようにさ迷いながら大人になっていく若者を描いています。トーマス・マンの『魔の山』では、普通の若者がダボスのサナトリウムで療養することになり、そこで様々な経験をして自己形成をしていきます。そして最後は第一次世界大戦に従軍する。この物語のキーワードは、「何のためにこんなことをしているの?」。つまり、「希望はあるのか?」ということです。そのような、時代の荒波にもまれる若者の姿を、現代日本では誰が造形化してくれるのか。


 僕は最近の文学作品を読んでいません。面白くないからです。一見「シャカイ系」であっても、しっかりしたデータに裏打ちされていない。いまこそ、新しい時代を生きる若者をシンボリックに示してほしい。「双書Zero」に期待しています。


本田:私も、もちろん文学の大切さは理解しています。私自身も文学が好きだし、Jポップも聞きます。現実的な対応も、文学も、どちらも大切。バランスなんでしょうね。


 私がスピッツを好きなのは、ミスチルみたいにベタッとしたところがないからです(笑)。スピッツは若者の鬱屈を、あるいは鬱屈した自分自身ですら相対化しているんですね。

 「ホッタラケの島」という映画の主題歌になった、スピッツの「君は太陽」という歌のなかに「渡れない濁流を前にして/座って考えて闇にハマってる」という歌詞があります。まさに濁流を前にして座り込んでいる感じがいまの若者の現状だと思いますが、この歌の最後の部分は「理想の世界じゃないけど/大丈夫そうなんで」なんです。究極の価値に期待したりせず、「理想の世界じゃないけど、大丈夫そう」と言えるような社会を若者たちとつくっていきたい。


澁谷:制度も承認も、文学もJポップもサブカルも、全部重要だと思います。スピッツでも東方神起でも、「双書Zero」でもいい。癒しになると思うものを互いに投げ合って、とりあえず受け止めてみることが大切です。それでもマイノリティ意識、被害者意識は残るでしょう。でもそれは、仕方がない。人間は、自己承認欲求の全部が満たされなくても、たとえば80%を満たされれば生きていけると思います。100%満たすべしという発想が流通すると、そんなことはほぼ不可能なのだから、かえって辛くなります。満たされない20パーセントを抱えるのが人生。そういう声を広げていくことが、必要じゃないかと思います。





















いまこそ、「希望」が必要

来場者Aさん:本田さんにお聞きしたいのですが、「ブリッジ的な結びつき」とはどのようなものか、具体的に教えてください。


本田:湯浅誠さんが活動している「もやい」などのNPOや、近年増えてきた、同じ悩みを持つ人が集まって体験を分かち合うセルフヘルプグループなどを念頭に置いています。閉じこもってまったりできる居場所ではなく、いつ参加しても、いつ抜けてもいいような、緩やかな関係性を保てる場所が増えてほしいと考えています。


来場者Bさん:僕は35歳の無職で、正社員になったことがありません。そこで澁谷さんに質問ですが、K君は、文学や制度ではなくて、単純に彼女がいれば救われたんじゃないでしょうか。男と女の関係でしか満たせないものがあると思います。性的なことだけじゃなくて。僕も、男の友情では解決できない部分を、彼女に支えられていると実感しています。


澁谷:頭に浮かんだまま率直に返答しますと、「まだ、女子に頼るんだ……」。彼女がいないと辛い世の中って、不便じゃないですか。ご質問された方は、いまは彼女がいますが、いなくなったら辛いですよね。ならば、彼女がいなくても快適に生きていける社会にした方がいいじゃないですか?……私にこう反論されて戸惑われているということは、その反論が考えていただくに値するものだからだと思います。もう少し検討していただいて、またお話しできたら嬉しいです。


来場者Cさん:サブタイトルは「希望はどこにあるのか?」ということですが、希望というものは、何かを達成したいという明確な方向性があるから生まれるものだと思います。どこに向かえばいいのかわからない、いまのような時代には、「幸福はどこにあるのか?」と問うたほうが適当かと思うのですが、いかがでしょうか。


:僕の独断と偏見ですが、それほど幸福が必要でしょうか。それなりに安定した暮らしのなかである年齢に達したからかもしれませんが、幸福を求めることが人生の目的だとは思えません。たとえば、生まれたときから何か不自由を抱えている人がいたとして、その人がどうなれば幸せかなんて、他人にとやかく言えるものではない。


 幸福とは、「おいしいものを食べて幸せ」「憧れの車を買えて幸せ」というように、きわめて個人的なものです。逆に、「おいしいものを食べたから、希望が湧いてきた」とは言いませんよね。それは希望というものが、匿名の人と分かち合うものだからです。本田さんのおっしゃる「シャカイ系」にも通じるでしょう。

 ですから、現代に必要なのは「希望」ではないでしょうか。では「希望」とは何か、については、これから僕自身も考えてみたいと思います。