明治のひとびとの性の世界へ/木下直之

 赤川学さんは、年は若いけれど、私の先生です。明治のひとびとの性の世界へと連れて行ってくれるから。いや、訪れる先は「セクシュアリティの近代」というべきか。
 明治八年(一八七五)に出版されるや大いに読まれ、百匹のドジョウならぬ三百冊をゆうに超える類書が続出した性典『造化機論』について、私も知らなかったわけではない。
 造化機とは生殖器のこと、幕末開化期の日本美術を話題にした座談会で私は、鮮やかに彩色された同書挿図の女性器を大きく取り上げ(『芸術新潮』一九九〇年十月号)、昨年秋には大英博物館の春画展開幕記念シンポジウムに招かれ、『造化機論』と浮世絵師渓斎英泉『閨中紀聞 枕文庫』に描かれた女性器の図を比較、大講堂の大スクリーンにどーんと写し出した。
 英泉のそれは性器を内側から描いたもので、誰のものかは知らないが、外側から人差し指と中指が二本差し込まれている。まるで人跡未踏の洞窟に足を踏み入れる川口探検隊である。こんなふうに、春画はまったく阿呆らしい笑いに包まれているというのが私の話の結論だった。
 それに比べれば、アメリカの性科学書 The Book of Nature を翻訳した『造化機論』は至極真面目な医学書のはずなのに、出版当時において、春画に取って代わるものと受け止められた。『東京新誌』にいわく「春画本廃れて造化史興り」(石井研堂『明治事物起原』ちくま学芸文庫)。そうでなければ、医学書が明治の社会にたくさんの読者を獲得できなかったのだろう。
 それほど読まれた本なのに、翻訳者・出版人については、奥付に記された千葉繁という名前しか知られていなかった。横浜在住という以外何ひとつわからない。いや千葉ばかりか、『造化機論』そのものが忘れられてしまった。
 赤川さんはこの謎に挑んだ。まずは「千葉繁というミステリー」。これが本書の前半にあたる。いったん糸口が見つかると、千葉繁の姿を隠していたヴェールは面白いほどにほどけだした。むろん、徒手空拳で乗り出した当人にすればさぞかし苦労の連続だっただろうが、「出逢いはいつでも、偶然の風の中♪」(さだまさし)、「必然たりえない偶然はない」(『装甲騎兵ボトムズ』)、「隣に人がいなければ、筆者はきっと落涙」(当人)、「あえていおう。千葉忠詮は、千葉繁の父親である」(『機動戦士ガンダム』に登場するギレン・ザビの口吻で)など数々の名言をちりばめたその探索の道のりは、当人ばかりか、読者も大いに楽しむことができる。
「ミステリー」ゆえに種明かしは避けたいものだが、ひとつだけ許されたい。千葉繁は浜松藩士だとわかった。赤川さんにとって、浜松は一泊しかしたことがない土地だという。かくいう私は浜松生まれの浜松育ち、八千泊はしているぞと威張ったものの束の間、何ひとつ知らないことがつぎつぎと明かされる。
 千葉が藩医として仕えた藩主井上正直は二度も老中を務め、外交の最前線に立ったというのに史家の評判は芳しくない。しかし、東海道の要所浜松藩は海防力を高めねばならず、洋学を担う人材育成と登用に積極的だった。森外の親友賀古鶴所の父公斎を藩医として大坂から召し抱えたのも正直である。種痘を通じて、千葉は公斎の近くにいたはずだ。
 こうして、『造化機論』出版の背景が幕末史の中に浮かび上ってくる。なるほど、アメリカの最新の性科学書を翻訳できる人間は、医学と英学に通じていなければならなかっただろう。しかし、漢方医の出自を有する千葉繁の経歴は、彼の手になる『造化機論』が、やがてはいかがわしいものとして退けられることにつながった。明治政府がドイツ医学を採用、医学教育・医学制度を整備すると、『造化機論』系の医学知識は専門性を欠いた俗論と見なされるようになったからだ。『造化機論』はなぜ忘れられたのか、これが本書後半のテーマである。明治日本が迎えた「セクシュアリティの近代」は見事に明かされる。
(きのした・なおゆき 東京大学教授)

筑摩選書
赤川学著 1500円+税

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