【追悼・岩田靖夫】 岩田靖夫先生の思い出/米田彰男


 何故か去年の初秋の頃と記憶していたのだが、その日は去年の早春、四月一日の事だった。夕方、銀座の数寄屋橋で待ち合わせ、岩田先生と筑摩の湯原さんと三人で食事をした。思えば、東日本大震災の年の一月、拙著『寅さんとイエス』の原稿を湯原さんに届けて下さったのは先生であった。出会い頭、「あれっ、先生、やせられたなあ」と思った。冷酒の方が美味しいのに、何故かその日は熱燗で、ゆっくりゆっくり食べておられるのも心配だった。どんな話の流れだったか忘れたが、安倍能成が学徒出陣の若者らに贈った歌、「明日知らぬ 今日の生命に 永久の 息吹を込めて 行けや益荒男」について私は語った。それはそれは楽しい晩餐だった。
 今年の正月明け、岩田先生のご長男尚志さんから、突然の電話があり、先生の容態が思わしくないことが告げられた。神父である私は、カトリックの七つのサクラメント(秘蹟)のうちの三つを準備して、京都から仙台に向かった。病者の塗油・聖体・ゆるしの秘蹟である。東北大学病院で、八番目の子、まだ若きご次男信一さんと待ち合わせ、病室に入った。そこには、もう声も出ない先生が横たわっておられた。その状態に接し、用意した二つの秘蹟は断念し、病者の塗油を額と右の掌に塗った。左手は動かし辛そうだったので、諦めかけたところ、手が動き、先生は両手で私の手を長く握られた。強く温かい手であった。沈黙の深淵に包まれて祈っておられるようだった。
 先生との出会いは、もう三十年以上前、場所はモントリオールである。当時カナダで神学を学んでいた私は、よく夏休みをモントリオール大学近郊にあるドミニコ会の修道院で過ごした。ある日の早朝、修道者もまだいない広い聖堂に入ると、一人のおじさんがちょこんと座っている。日本人かなと思いつつ話しかけ、そこから瞬く間に仲よしになった。その夕べ、街に出てビールを飲んだ。意気投合した我々は、数日ケベックを旅し、その後当時住んでいたオタワに戻り、親しい日本人の家族を訪ね、よきひと時を過ごした。翌日、オタワの街を散歩している時、先生はふと「妻には苦労をかけたから、晩年はオタワのような所で一緒に過ごしたい」と漏らされたことをはっきりと記憶している。
 葬儀は家族だけで行われた。ミサをささげながら、先生の洗礼名はヴィアンネであることに気付いた。ベルナノスの小説『田舎司祭の日記』でも知られるヴィアンネは、若き頃ラテン語が極端に不得手だった。当時神学校は、講義も試験もラテン語であったから、彼の困難は測り知れない。苦労に苦労を重ねて神父になったヴィアンネは、卓越した霊的直観力を示し、ゆるしの秘蹟を受けに来る村人らに、生きる希望を与えた。フランス革命後の当時、フランス中から巡礼者がアルスの司祭ヴィアンネのもとを訪ねた。そういう田舎の素朴な良き司祭を、岩田先生は霊名に選んでおられた。なるほどなあと思いつつ、ミサの中、先生を偲んだ。
 晩年は二人で飲む際、酔いが回るとよく「からだの復活」について疑問を示された。からだの復活はカトリックの重要なドグマであるが、ギリシア哲学者の立場から、この教義は受け入れ難かった。この難問に関し、神学においては、トマス・アクィナスが『神学大全』第三部第五十四問題において「復活の後キリストは真実の身体を有していたか」を論じ、続く第五十六問題で「キリストの復活は諸々の身体の復活の原因であるか」を論じている。また聖書においては、エマオへの途上、二人の旅人が復活したイエスに出会ったこと(ルカ)、マグダラのマリアの前に現れ、トマに手と脇腹の傷を示したこと(ヨハネ)などが記されている。更に、新約聖書の最も古い層に属する、コリント前書十五章三節以下、フィリピ二章六節以下では、「信仰告白」の形をとって、多くの弟子達の復活体験が確認されている。言わばこうした復活の証言を真に受けて、キリスト教は生まれ、新約聖書は書かれた。
 岩田先生が亡くなられた一月二十八日は、奇しくも聖トマス・アクィナスの祝日である。今頃天上で、トマスと先生が、からだの復活について、叡智の論争を、静かに熱く繰り広げているに違いない。あの懐かしい岩田靖夫先生そのままの姿で。

(よねだ・あきお カトリック司祭)

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