読むほどに言葉の深度が増してゆく/平松洋子

 先週、こんなことがあった。長年加入してきた生命保険を書き換えるために、保険会社の担当者二名がやってきた。二十代後半の男女で、いかにも若い。以前に二人から変更内容の説明を受けたのだが、そもそも保険の仕組みについて理解能力の低い私は、勧められた資料を読みこんで納得、今日は署名と捺印のみという段取りになっていた。

 ところが、様子が違う。先輩格のほうが「もっといい組み立てがあると上司からアドバイスがありまして」と口火を切り、電卓と書類を繰りながら口角泡を飛ばす勢いだ。しかも、毎月の支払い金額が三万円以上も高く設定してあるので、あっけに取られる。二人を制して、私は言った。ちょ、ちょっと待って。いきなり早口でまくしたてられても困る。今日は署名と捺印をして契約を終えるはずだったでしょう。すると、二人ははっと我に返った顔になった。私はこう締めくくった。
「会社の事情はさておき、先週熱心に勧めてくれた内容も、自分の仕事も、ぜんぶ否定することになっていますよ?」
 私は、ほとんどオカーサンの気分だった。まっ赤な顔をして下を向いている二人に、心のなかで「がんばれよ、人生まだまだこれからだ」。エールを送るような気持ちになっていた。
『おとなになるってどんなこと?』を読みながら、あの二人の若さが何度も思い出された。子どもたちに向けて書かれた一冊だけれど、ここに記された言葉は年齢も性別も飛び越えて、誰の胸にもまっすぐ届く。社会に出たばかりのひよっこにも、酸いも甘いも噛み分けたつもりになっている大人にも。
 冒頭の一文は、吉本ばななのマニフェストである。
「大人になんかならなくっていい、ただ自分になっていってください」
 柔らかくリミッターをはずしたのち、こう書く。
「大人になった後は、子ども時代を取り戻して本来の自分に戻っていくことがいちばん大切です」
「大人になるということは、つまりは、子どもの自分をちゃんと抱えながら、大人を生きるということです」
 なんとみずみずしい視点だろう。心身にすーっと風が吹き渡るかのようだ。これらが「お守りのような言葉」となって、ひとりひとりの存在を全肯定する。そして説く、成長するにつれて子ども時代はおのずと相対化されるものなのだから、人ひとりの人生にはあらかじめ唯一無二の価値が与えられている、だからこそ子ども時代をこそ大切に見つめよ、と。
 人生をめぐる全八問。「勉強しなくちゃダメ?」「友だちって何?」「普通ってどういうこと?」「年をとるのはいいこと?」「生きることに意味があるの?」「がんばるって何?」など、一問ずつ向き合いながら、自身の思春期の経験がいくつも差し出される。病院にわざわざ付き添ってくれた父と親戚同然のおばあちゃんの存在を、ある悲しみをもって受け容れた特別な瞬間のこと。作家志望の情熱と、授業や教師との間に生じたギャップ。友情の変質、あるいは喪失感について。母との相克……はっとさせられるのは、それらはエピソードの範疇にとどまってはおらず、恩恵のような光を宿しているということだ。経験とは、蒙る者によって、珠にもなれば塵芥にもなる。本書には、「子どもの自分をちゃんと抱えながら、大人を生きる」ことの意味が、身をもって示されているのだ。吉本ばなながつねに貫くかくも誠実きわまりない姿勢に、私は畏敬の念を抱く。
 充分に生きるとは、たいへんなことだ。その困難さに、言葉を手立てに取り組む一個の人間の姿がくっきりと見えてくる。自身が拠って立つ言葉は、あくまでも勁い。
「迷いなく幸せを描くことだけが現代における芸術家の真の反逆だと私は信じています」
 読むほどに言葉の深度が増してゆく一冊である。

(ひらまつ・ようこ エッセイスト)

吉本ばなな 著



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