瀧井朝世/語られること、語られないこと
悩み、もがいている人物の一人称小説は難しい。自分の苦しみを自分で語っている様子が、なんだかその人の自己憐憫や自己陶酔につきあわされているだけの気分になることもあるからだ。だが、伊藤朱里さんの『名前も呼べない』はまったくもって、そんな作品ではなかった。一人称小説であるものの、この〈私〉は、語らないことがある。語れないのだ。
語り手の中村恵那は二十五歳。東京で契約社員として二年半勤めた会社を辞め、母が一人で暮らす千葉の実家に戻るつもりでいる。そんな折、前職の同僚たちに呼ばれた新年会の席で、不倫相手が娘を授かったことを知って動揺する。最近は連絡が途絶えがちだったが改めて相手とメールをやりとりし、別れを決断。しかし心の傷は深い。
読み進めていくうちに、この恵那が非常に複雑な事情を抱えていることが分かってくる。彼女は十二歳の時に父親に二階から放り出され、その前後の記憶を失くしている。周囲は父親が性的虐待をしたと判断し、両親は離婚。母親は一人で彼女を育ててくれたわけだが、その事件のために母娘間には確執が生まれてしまっている。また、この時から恵那はひどい接触恐怖にとらわれるようになり、そのため人付き合いが下手だ。保育短大を出て保育士になったものの保護者に執着されて辞めざるをえなくなり、その後キャバクラで働くという無茶もした。そして契約社員となった勤務先で、宝田という四十五歳の男と出会う。恵那は彼の妻が自宅でひらいているピアノ教室にも通って交流を深めていたが、その関係ももう終わる。この主人公は、居場所を求めているのに、自分がどんな場所にいたいのかすら分からずに彷徨っているという印象だ。
困った時や苦しい時ほどへらへら笑ってしまう彼女は、読者に対しても真実を明かさない。少女時代に父親と何があったのか、もしかしたら本当はちゃんと憶えているのではないか、とも思わせるが、彼女は語らない。いや、語れないのだ。それは意識的に隠しているというよりは、本能的なものなのかもしれない。さらに終盤には、とある事実が明確に語られていなかったことが分かって驚かされるのだが、この女性はおそらく、そんなふうにしか語ることのできない人なのだ。何を語り、何を語らずにいるか。そこから彼女の混乱と苦しみと、行き詰り感が立ち上がってくる。苦しい心情をダダ漏れにしているだけの一人称小説とは違うのだ。
また、なんといっても痛快なのは、彼女の親友だ。保育短大で同期だったメリッサは、男性として社会人生活を送っているが、恵那に会う時はゴスロリファッションに身を包んでいる。自分の生き方を自分で選んできたメリッサは、いつだって恵那に対して率直で的確な言葉を投げてくる。自虐的な恵那をつねに受け入れ、咤し、恵那以上に彼女のことで本気で怒り、そして面倒をみてくれるのだ。二人のやりとりはユーモラスで、時に笑ってしまう。傍からみればこの存在が主人公、そしてこの小説にとって大きな救いだと思えるが、恵那はそんな大切な友人関係をも崩壊させるような言動に出てしまう。
自ら破滅へ向かって暴走するタイプの人間というのはいて、おそらくこの時期の恵那もそう。だけどその居場所のなさ、生き方の見つからなさは、今の時代の誰もが心のどこかで感じているのではないか。もはやどんな結末に辿りつくのか、我が身を案ずるような不安な気持ちで読み進めることになってしまったが、でも最後には、どこにも居場所がない彼女が、自分の魂の居場所は自分だと見定めたと思えた。
おそらく多くの人は、本書を再読するだろう。その時に、この少し壊れかけた女性の語りが、どんなに精密に考え抜かれて書かれているのか分かるはず。こんなに壮絶で、こんなに繊細で、こんな巧みな世界を築くとは、末恐ろしい新人である。
(たきい・あさよ フリーランスライター)
名前も呼べない
伊藤朱里著
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