【特集 ちくま文庫30周年記念】 『命売ります』は味方か敵か/加藤シゲアキ

 近著である『傘をもたない蟻たちは』(KADOKAWA)を上梓させてもらってから数カ月経った頃、とあるライブでラジオ番組の放送作家の方に再会した。その方は僕の作品を読んでくれていたようで、最新刊に関してはありがたい言葉をいくつも頂いた。そして話の流れで次回作のことを尋ねられた。
『傘をもたない蟻たちは』は、それまで一貫していた芸能界と渋谷というテーマにとらわれずに、SFやエンタメっぽいものから自分なりの文学を表現したものなど、自由な発想から作った小説集だった。それは作家としてより高みを目指したいという思いからだったが、それだけ手を広げてしまった結果、次の指針を見失ってしまった。ゆえに僕の回答はこのようなまごついたものになった。
「表現としては純文学に挑戦したい思いもあるのですが、ひとりよがりになりそうで二の足を踏んでいます。エンタメ性を保持したまま文学的な作品が書けるようにならないと、この先はないかなぁとも思いますし」
 するとその方は一冊の小説をこのように勧めてくれた。
「だったら今ブームになっている三島の『命売ります』を読んでみたら? あの三島とは思えないくらい砕けた文体で、面白くてうまいよ」
 というわけで今後の作品作りのヒントになればとちくま文庫の『命売ります』を手に取った。帯には「怪作」や「極上エンタメ小説」といった文字が並んでいたが、僕はそれには半信半疑でこの作品を読んだ。
 一九六八年に連載されていた『命売ります』は、自殺に失敗した男が新聞に「命売ります」と広告を出したところ、さまざまな依頼人たちによって翻弄されては騒動を起こしていくという物語だ。
 まず僕が読んできた三島作品の印象とは大きく違っていたことに驚いた。文体は、三島のあの凝りすぎともいえるナルシスティックな美文とは違い、連載していたのが『週刊プレイボーイ』ということもあってか軽やかかつコミカルで、ストーリーもふざけていて笑える。主人公を訪ねてくる利用者たちは妻を寝取られた老人や吸血鬼を母に持つ少年、スパイなど、三島作品とは思えない個性的な登場人物も馬鹿げていていい。今面白がられるのも理解できるし、確かに「怪作」で「極上エンタメ小説」だった。
 しかしそれだけではない魅力がこの小説にはある。例えば主人公が自殺する理由はこうだ。カフェで読んでいた新聞を落としてしまい、拾おうとしたところゴキブリを見つけ、それから新聞の活字がゴキブリになってしまって逃げていく。それに絶望したというのだ。
 僕がもっとも好きなのは、男が鼠のぬいぐるみに食事を勧めるものの、微動だにしない鼠にキレる場面だ。男は言う。「人が見たら、孤独な人間が、孤独から救われたいあまりの、つまらん遊びと見えるだろう。だが、孤独を敵に廻したら大変だぞ。俺は絶対に味方につけているんだから」
 僕には作者が、仄暗い夜に薄く氷の張った湖の上でにやりと笑いながらスケートしている姿が浮かんだ。そのスリリングな感覚に読者はいつしか引き込まれ、作者の世界へと誘われていく。今後の参考にするつもりが気づけば夢中になり、まるで行き先のわからないバスに乗ったような気分のまま僕はこれを読み終えた。
 既存の枠に縛られない、遊び心に溢れたこの小説はどこか気張っていた僕を慰めてくれた。そんな温かい味方のようでいて、同時に、これを三島にやられてしまってはもう手も足も出ないと僕に思わせる、冷たい敵でもある作品だった。
『命売ります』が今後の作品作りにどう影響するかはまだわからないが、読んでいる最中から書きたくなっている自分がいた。次に書く小説がゴキブリにならないことを切に願いつつ、僕は次の構想を練り始めた。(かとう・しげあき 歌手/作家)

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