超領域の美術史/三浦篤

昨今の西洋美術史研究にかつての面影はない。構造主義言語学や記号論の影響を受けた「ニュー・アートヒストリー」が一世を風靡したのは、確か一九八〇年代だったと記憶するから、もう四半世紀も前のこと。その後、社会学、人類学、精神分析学から、カルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアリズム、ジェンダー研究にいたるまで、新旧の諸学問からさまざまなパンチを浴び続け、いわゆる正統派の美術史学なるものは、もう青息吐息というか満身創痍というか、リングでふらふらになりながら何とか持ちこたえている老ボクサーそのものだ。
 かつて、この私も瞳を輝かせながら西洋美術史研究者を目指していた三十年前にさかのぼってみれば、その研究風土、方法論的な枠組みは今とはおよそ違っていた。その頃、必読書たる地位を占め、それを読まずしては西洋美術史のモグリと指弾されてもしかたなかった本をあえて一冊だけ挙げるならば、エルヴィン・パノフスキーの『イコノロジー研究』に指を屈するかと思う。ハンブルク出身の美術史家アビ・ヴァールブルク(近年美術史を超えた熱い学問的関心を各所で呼び起こしている)を始祖とし、パノフスキー、ザクスル、ヴィント、ウィトコウアー、ゴンブリッチなど、ヴァールブルク派の錚々たる学者たちによる図像解釈学の華々しい成果が、日本の若い美術史学徒たちを魅了していた時期は確かにあった。その象徴ともいうべき書物が、影響力の大きさからすでに批判もあったとはいえ、この『イコノロジー研究』にほかならない。
 ナチス政権が樹立するとヴァールブルク研究所はハンブルクからロンドンへ移って今日にいたるのだが、パノフスキー自身はアメリカへ亡命し、プリンストン大学高等研究所教授として活躍する。英語で書かれた『イコノロジー研究』はその時期の代表的著作であり、同時代の文化史、精神史とリンクさせて美術作品を読み解く方法はまことに鮮やかだった。ただし、パノフスキーの学問はすでにハンブルク時代に確立していたというのは周知の事実。中でも、本書『〈象徴(シンボル)形式〉としての遠近法』は新進気鋭の時期を代表する重要な業績で、ヴァールブルク研究所を媒介に親交を結んだ哲学者エルンスト・カッシーラーの『シンボル形式の哲学』の影響の下に結実した、まさに超領域的な論文なのである。
 久しぶりに読み返し、パノフスキーの凄さに改めて感じ入った。ルネサンス期に確立した幾何学的な線遠近法についてはとりわけ成立期の問題を扱った山のような研究があるが、パノフスキーのそれは性格を異にする。古代から中世、ルネサンスにいたる長大な時間の流れの中で、絵画に表れた遠近法、空間表現を精査し、その段階的な構造変化を世界観の変遷としてたどっていくスケールの大きさは圧倒的である。われわれは線遠近法を数学の裏付けのある普遍的な表象形式であるとつい単純に思いがちだが、無限で等質な空間を前提とする線遠近法こそは歴史的な産物であり、主観的なものを客観化しようとする西洋近代の文化的営為であったことを本書は明示してくれた。その相対主義的な見方に衝撃を受けた記憶がある。
 また、その論証を裏付けているのはパノフスキーの驚異的な「学識」である。パノフスキー本のマニアックな読み方としては、骨太の論理の把握に留まらず註に惑溺するやり方があるのだが、本書においても、それぞれが別の論文に発展しかねない註には、美術史を思想史や科学史と連動させ、人文学の広大な沃野に開いた著者の力業が集約されているのがわかる。一個の言明の背後にあるものの確かな重さを感じる瞬間である。
 気がつけば、最初一九二四~二五年に発表されたこの論文は、すでにして「学際的な」「領域横断型」研究の綽々たる成果ではなかったか。この高峰は乗り越えられたなどと安易に口にしないでおこう。批判的な止揚の試みを何度も誘発するところに本書の栄光があるのだから。華々しい看板だけで内実のともなわない昨今の研究を見るにつけ、パノフスキーの業績は過去の遺物ではなく、未来への遺産なのだと切に感じるこの頃である。
(みうら・あつし 東京大学教授・美術史)

『〈象徴形式〉としての遠近法』
エルヴィン・パノフスキー  木田元監訳  川戸れい子/上村清雄訳
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