いまさらながら、《の彼方》とは何か/天沢退二郎

 私が宮沢賢治に関して最初の著作を刊行したのは、四十年余り前、一九六八年一月であるが、その内実となる本文を同人誌「凶区」に連載を始めたのは一九六四年である。
 そもそも、その題名「宮沢賢治の彼方へ」は何時、何処から来たかというと、連載開始前号の表紙裏に「次号予告」をと言われて、とっさに思い付いたのだと、長い間、私自身、思い込んでいた。
 ところが、はるか後年、それも今回刊行の新著『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』の原稿束を二〇〇六年秋に筑摩書房へ渡したあと、昨年になって、偶々、半世紀前に私が初めて書いた短い賢治論の切抜きに目を通してみると、そこに「……天才である賢治をのりこえてその彼方にあるもの、人間としての賢治をつかまえねば……」などとほざいていたのであった。大学二年時、一九五七年のことである。
 そこで私は急遽、筑摩書房編集部にも相談して、校了直前にこの、二十代初頭の拙文「宮沢賢治論序説」を、そのまま、今回の書物の「序にかえて」として掲げることにした。
 しかし、「彼方」とは、どういうことを言うつもりだったかは、必ずしも明らかでない。
 一九六四年六月の、「凶区」連載第一回の序章では、「ぼくは作品の彼方へ行きたい」「宮沢賢治の作品の彼方を見るのだ」と書いていて、これは一九六八年の初版でも、後の文庫版でも同じだが、この「作品」概念の重視は、当時熟読していたモーリス・ブランショの影響だけれども、一九五七年はまだ、ブランショのブの字も知らずにいた。それでも、年譜的事実への還元を非とし、聖人視・天才視から脱却しようという意志をそのときから明言していて、以後のわが賢治論全体の「序」たりえている。
 後に私が、何かといえばブランショを援用して得々と弁じるたびに、大岡信さんに「そんなことはとっくにヴァレリーが、必要なことをみんな言ってるよ」と、たしなめられた。じっさいヴァレリーが、「詩人たちの伝記についての知識は、かれらの作品を賞味したり、そこから芸術上の教訓や問題を引き出す場合、たとえ有害ではないとしても無益である」と断じながら、ヴィヨンとヴェルレーヌの場合を例外としているのを知って、私も、宮沢賢治の場合もまた、少なからぬ例外の一つであると、柔軟に考えることにしている。ただし、ヴァレリーもブランショも、言っていることは基本的に正論であり、それ以来私は特にその正当性にかんがみて発言するものであることのしるしに、自著の題名では『《宮沢賢治》論』『《宮沢賢治》注』等と、二重山カギ《 》を用いることにしている。ただ、いちいちそのことを明示する必要のないときは、煩雑であるから、ふだんは《 》は原則として省略している。
 さて、「の彼方へ」とは何か。この前置詞句は、じつはフランス語の《au del de》の直訳である(反義語は《en de de》)。日本語の「彼方」は時間的と空間的の両義をかねていて、反義語「の手前に」が限定的であるのに対して、「の彼方へ」は無限に遠くまで広がるという特質がある。しかしいずれにしても、この前置詞句の核になっている《l》も《》も、その正体は代名詞であって、実体は何もなく、「~のあっちへ」(「~のこっちへ」)という方向指示語にすぎないから、「彼方」という漢語の意味深長さは、もともとフランス語にはなかったのだ!
 ただ、時間性を考えに入れると、「《宮沢賢治》の彼方」は、オリジンへの遡行を含みうるように思われる。一体、《宮沢賢治》は、いつどこから、この私にやってきたか? 具体的には、幼時の私に父親がもたらした『賢治童話集』という書物。それらをさらに遡ると、父親が同僚の西川氏から借りたもの――その西川伍朔さんが今年の一月に死去されたので、この私への《宮沢賢治》到来の経緯の詳細はもはや聞くべくもなくなった。残されたのは茫漠たる「過去時の彼方」のみ。
(あまざわ・たいじろう 詩人)

『≪宮沢賢治≫のさらなる彼方を求めて』
天沢退二郎著

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