歴史の中の「海嘯」/伊達宗行

『「理科」で歴史を読みなおす』という本を書き上げ、最終校を渡したところでチリ地震津波がやってきた。これも入れたいと思ったがもう遅い。そこで「ちくま」にちょっと書かせていただく。歴史のなかの理科として手ごろな話題だからだ。
 津波は英語でも tsunami である。しかしこれを日本語で海嘯といったことを知る人は少なくなった。もっともこんな題の小説があったような気もするが定かではない。いずれにしても海嘯は死語になったといってもよいだろう。
 しかしこの言葉には恐ろしい意味がある。嘯とは元来うそぶく、口をすぼめて長く声を引く、口笛を吹く、などを言う。そこで海鳴りを海嘯と言ったりもするようだ。だが海嘯とはれっきとした津波のことであり、その鋭角的な断面を見事に表す言葉なのだ。
 一九三三年、三陸沖で地震があった。地震の被害それ自体はたいしたことは無かったが、大津波が沿岸を襲い、最高波高は三十メートルに近く、死者、行方不明者数は三千人を越した。この時筆者はまだ子供だったが、夜も眠れぬこわい話を聞かされたことを憶えている。それは九死に一生を得たある老人の思い出である。こんな話だ。
 ──気がついて見ると、背後に絶壁のような海が迫っていた。あたりに物音は無く静まり返っていた。足がすくんで動けない身に、さわさわと呟くような音が聞こえた。振り向くとそれは海壁の最上部がめくれるように内側にこぼれ落ちる音だった。──
 海嘯の一断面をかいま見せるこの話は、チリ地震津波の対極にある。チリ地震津波は、はるばると地球を半周して来ているからぼやけた波になっていたが、日本近海の巨大地震はこんなものではない。もちろんすべてが三陸の老人が見たようにはならないが、波の伝わる早さが海底より海面のほうが早いので、波がせり上がってきやすい。老人の見た波は確かに起きるのだ。
 チリ地震津波にもどる。「理科」の目で見るとテレビの映像には不満が色々ある。気象庁の発表が中心にあるのは当然だ。それに誤差があっても、議論をする場ではない。また現場のレポートが第一なことも明らかだ。映像のインパクトは絶対である。
 しかしながらこの自然のドラマは息が長いのだ。NHK総合テレビは二月二八日の昼間約十時間程を津波の報道に当てていたから、放映可能な情報量は膨大にあり得た。しかし流された情報は極めて限定的だった。どうあるべきであったのか。
 ポイントが二つある。一つは前回との対比であり、もう一つは日本の津波の多様性認識である。眼前のドラマを眺めながら、来たるべき日本近海の大津波に備える絶好の理解増進の場と捉えることだ。
 前回との対比から考える。ちょうど五十年前、史上最大の地震がチリで起きた。その津波と今回のものとは兄弟のようでよく似ている。発生場所はほとんど同じ、地震の巣があるらしい。エネルギーは今回が約十分の一、これはマグニチュードを聞けば、科学記者にはすぐ計算できるはずだ。こんな報道がニュースの合間に聞きたかった。
 もう一つの視点、日本の将来のために津波の多様性はぜひ知らせておきたい。三陸の老人の見たようなのもあるのだ。テレビで見るスマトラ津波も、ハイチ津波も皆「安全なところ」から撮った映像であることを忘れてはならない。津波は大きな洪水のようなもの、だけでは済まないのである。
 これからが本論なのであるが、紙数はもう無い。そこで言いたいことを叫んで終わる。「理科」はまだ専門的、職業的な科目と見られているがそんなものではない。人間の本性そのものなのだ。その良い鏡が歴史である。歴史とは、人間のして来たこと、である。そのなかに「理科」が渾然一体となっている。こんなことを書いた本のつもりだ。
(だて・むねゆき 大阪大学名誉教授)

『「理科」で歴史を読みなおす』 詳細
伊達宗行著

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