理不尽なのが旅の醍醐味/宮田珠己

 旅の醍醐味とは何か。
 それは自分の常識の外にあるものと出会って意表を突かれたり、思いもよらない経験をすることにある。
 十年ほど前のこと、私は中国でこの醍醐味を味わった。
 中国には寝台バスというのがあって、私も長距離を移動する際、ときどき利用していた。寝台バスは、たいてい通路の両側に上下にベッドが並んでいて、ひとつのベッドに二人が寝るようになっている。驚いたのは、狭い二人用ベッドに、男だろうが女だろうが、適当に乗客を放り込んでいくことで、そうすると、若い女性がむさくるしいおっさんと同じベッドで長い時間過ごすという事態が当然のように頻発し、日本人の女の子などは、とてもじゃないが乗りたくないと言っていた。
 たしかシルクロードのどこかの町から敦煌へ行こうとしたときのことだ。私も、そんな寝台バスを利用した。といっても、そのときは妻とふたりだったから二人用ベッドで何の問題もなかった。
 ところがである。この寝台バスが想定外の代物だったのだ。
 べつにぼったくられたとか、寝台が壊れていたとか、行き先をまちがえていたとかいうわけではない。寝台はきちんと寝台であったし、バスそのものは時間通りに出発したし、行き先も敦煌でまちがいなかった。値段も相応であった。しかし、それでも今までに乗ったバスのなかで、もっとも心休まらないバスだったと断言できる。
 というのは、このバスには一人用の寝台が四つしかなかったのである。
 べつに問題ないではないか、と思うかもしれない。むしろ四つしかない寝台を手に入れることができてラッキーだったと思うかもしれない。
 しかし、そうではない。寝台は二段ベッドがふたつ、その片方の下段を運転手の交代要員が使い、上段は荷物置き場になっていて、残る二段ベッドの上と下が、わたしと妻の分であった。そのほかは全部ふつうの座席で、つまり、乗客のなかでわれわれだけベッドに寝ていることになるのである。
 しかも、ふたりだけ寝ている時点で、もう十分恥ずかしいのに、そのベッドがちょうど見世物のように、運転席のうしろ、つまり残る何十もの座席の真正面に設置されているのだった。カーテンのような気のきいたものはもちろんない。そうすると、どういうことになるか。
 乗客全員がわれわれふたりのほうを向いて座る形になり、わたしと妻は昼間っから公衆の面前でベッドに横にならなければならないという、実に得体の知れぬ事態に陥ったわけである。
 なんちゅうこっちゃ。
 上下に分かれているとはいえ、夫婦で横になるなんて、何もしないのにそれだけで淫靡な感じがするじゃないか。
 夫婦で会話をすると目立つから、おとなしくじっとしていることにしたが、会話をしなくても十分目立つ。
 ええい、なに、気にすることはない、ここではそれが普通なのだ、と超然と横になってはみたものの、みんなが常にじっとこっちを向いているので、どんな顔して寝ていればいいのか、そのうちにさっぱりわからなくなった。意識しすぎるせいか、何をやっても動きがぎこちなく芝居がかってしまい、意味もなく顔を掻いたり、寝返ったりして、動物園の動物になったような気分だ。
 こんな珍妙なバスが他にあるだろうか。
 そうしてそんな状態で約十七時間揺られ、無事敦煌に到着したときには、われわれはヘトヘトに疲れきっていた。座席に座って過ごすより疲れたと思う。寝台なのに。
 そして私が思うに、この理解を超えたバスこそ、旅しなければ決して出会えなかったものであって、旅の醍醐味とは、だいたいにおいて困惑するものなのだ。
 というわけで、さらに強烈な理不尽体験の数々を一冊に詰め込んだのが、私の『旅の理不尽 アジア悶絶篇』です。どうぞよろしく。(みやた・たまき エッセイスト)

『旅の理不尽─アジア悶絶篇』 ▼詳細
宮田 珠己 著

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