モダン・トンネルを抜けると、そこは……。/富岡幸一郎
大河ドラマの効用もあるが、坂本龍馬人気は、左右を問わず現役の政治家の口からその名が飛び出すほどである。『坂の上の雲』も相変らずの人気で、保守派といわれる少なからぬ知識人たちは、口を開けば「明治人の気概」だの「サムライ魂」だのとくりかえしている。「明るい明治」と「暗い昭和」という司馬“史観”の陳腐さなどは二の次である。耶蘇教嫌いの日本人が、内村鑑三や新渡戸稲造を称揚するのも、クリスチャンの上に「サムライ」という冠が付いているからだ(武士道や儒教にキリスト教を接木した、明治の近代精神である)。
中国の艦隊が沖縄から太平洋上まで遊覧しても、「友愛外交」を掲げて文句ひとついわず、普天間飛行場の移設問題でも、ほとんど自立した国家とは思えぬ対応をくりかえすこの国の理性喪失状況を眼前にすれば、たしかに憂国の志士ならずともマスラヲぶりで「たちあがれ日本」とでも叫びたくなるだろう。
しかし、そもそも、この「日本」とは何なのか。幕末の攘夷派よろしく刃を振り上げても下ろすところはないし、“脱米入亜”路線で「東アジア共同体」などと鳴り物を入れても、かつての大東亜共栄圏の幻想の二番煎じにもならない。保守派が最後に持ち出す「万世一系」の天皇は、西洋の『ダ・ヴィンチ・コード』よりはリアルだが、最近の皇統をめぐる論議の分裂などは大山が鳴動しているかに見えても、マスラヲ一匹出てこない。
本書はこうした平成の日本人へ、強烈な「覚醒」をうながす刺激的な内容に満ちている。著者は周知のように『東アジアの思想風景』『東アジア・イデオロギーを超えて』等で注目された、韓国・朝鮮などの東アジアの歴史と文化研究の専門家であるが、「日本文明圏」というタイトルに見られるように、これまで中華文明圏のなかに位置づけられていた日本文化を、その呪縛から解き放つところに主眼が置かれている。それは岡倉天心、大川周明から小林よしのりの『天皇論』まで継承されてきた「万世一系」の日本文明論が、「実は中華文明圏の本紀・列伝の正史をなぞるアジア主義のパラダイム」にあることを指摘しつつ、「日本文明の価値・意味・特性」は、「あらかじめ日本に歴史的個性として確固として形成された文明の中に文化端末として眠っている」という。第一章「日本のレアリズム」では、それを日本の「国風文化」すなわち漢字(シナ文化)ではなく、女文字による手弱女ぶりの「やさしさ」に見出す。これは評者のような「文学系」の人間にはきわめてよくわかるが、明治近代化以降の「武張った武士」の精神によって西洋型の国民国家形成に勤しみ、戦後はアメリカ的価値を「普遍」や「理想」として、経済成長をひたすら「武張った」近代日本人にとっては少々とまどわずにはいられない。
しかし、「文化端末」という本書の用語が、「近代」という価値の「中枢」という概念との対比で使われているのは、現在の日本(二〇〇五年以降)はあきらかにモダンという時代の長大なトンネルを抜けて、真のポスト・モダン時代に入ったという著者の根本的認識によっているのであり、その地平に立てば、日本文明の本質(可能性)をマスラヲぶりよりも手弱女ぶりの創造に見ることは、まさに今日的なリアリズムである。詳述できずに残念だが、本書の第二章・三章では、七〇年代から八〇年代に流行したポスト・モダン哲学の正体が「明るいモダン」に過ぎないと看破したその返す刀で、大塚久雄に代表される社会科学者の威光がいかに「モダンの時代」の「武張り」の幻想(それはすでに崩壊して久しいが)に支えられてきたかが、見事な悲喜劇として活写され痛快でさえある。さらに最終章でふれられる三島由紀夫論は、いわゆる保守派の天皇論との本質的相違をその文化概念から的確に指摘して大変興味深いが、評者としては、昭和十年という時代にモダンの「長いトンネル」をすでに抜けて『雪国』を書いた川端康成の世界が、本書の自在かつ柔軟な文体と、平成ニッポンの「夜の底」で仄明るく照応するのを感じた。
(とみおか・こういちろう 関東学院大学教授)
『日本文明圏の覚醒』 詳細
古田 博司 著
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