近代の消費の渦に消えた「市民」/原 宏之

 わたしたちはいつから欲求を制する理性を失ったのだろうか。それどころか快/不快の感情の判断すら膨大な情報とマーケティングのなかであやしくなっている。ドゥルーズのカント論風にいえば、諸能力の総合と代替配置がおかしくなっている。崇高はいまどこにあるか? 霊性なきこの時代に。
 かつて、といってもいまからほんの百五十年ほど前、カントの時代より半世紀後のこと、十九世紀フランスは、視覚による感性的な快楽を享受していた。万博や産業博に実見学習、ときには精神病院や人間動物園も見学の娯楽の場となった。一八三〇年代のパリ、マガザン・ド・ヌーヴォーテと呼ばれる、予め衣服や家具の商品を実際に見てから購入できる店が登場し、鉄道が走り、電信により標準時間がはじまり、通信社がニュースを集め、なによりもその明証性を疑い得ない実用的な写真機が登場する。
 一八五二年のこと、ある兄弟がはじめた商店が世界初のデパートとなる。アナール学派を生み、ジャック・デリダが教鞭を執ったEHESS(社会科学高等研究院)からラスパイユ大通りを少し上り、警備員の立つシックな高級ホテルとの間の公園を曲がると、奥まった場所にいまも佇むボン・マルシェがある。買い物客を幸福な雰囲気に包み込む、あれもこれも実際に見て手にとりショッピングができる空間である。
 十九世紀後半のパリの民衆各人――労働者、実業家、貴族に貧困者と生活風景を克明に描いたエミール・ゾラが『婦人たちの幸福のため』と名を変えてこの百貨店の表と裏を見事な小説に仕立てている。いつものようにプロットと人物造形の隙間から痛烈な社会風刺が吹き荒れる。「ボヌール・デ・ダム」百貨店は、庶民もブルジョワもこの空間に足をいれれば万物を支配する「女王」のように君臨した気にさせ、あれやこれやの新商品を恭しく薦める自分だけの「執事(臣民)」をもったかのように錯覚させる魔法の空間である。こうして消費近代は、政治の主体者になったかと思われた市民たちを分別のない消費者に頽落させ、フランス革命以来の近代デモクラシーという壮大なプロジェクトを危機に追いやる。百貨店を「顧客と化した民衆のための商売のカテドラル」とゾラは形容した。
 ゾラが書いた第三共和制の時代、文学者・知識人は、民主政論者だけではなく保守ナショナリストも一致して、ゆきすぎた産業・資本社会を批判した(ドイツでヴァイマール共和政からナチスの時代まで保革入り乱れて知識人たちがスペクタクルの社会を批判したのとおなじである)。
 シミュラークル、つまりほんものではない偽物を消費し、人工物に囲まれるなか、わたしたちは自然状態で有していたはずの能力を失い、生きる力を弱めている。いまではボン・マルシェ周辺に大量生産による低価格のブランド店が出てきて、却ってこの百貨店を静謐の場にしている。わたしたちは政治の主体どころか、無関心な群衆となった。近代デモクラシーのはじめ、即座に市場・テクノロジーが世界を襲った。あらゆる価値が貨幣に還元される。利便性と引き換えに身心の力を失ったヴァーチャルな社会。とりわけ日本は心のはいっていない笑顔といらっしゃいませと過剰な敬語で、うっかりすると王様のような気になってしまう、便利な「ファミレス・コンビニ社会」である。
 知の場であるEHESSはサルコジ大統領の大パリ計画により、パンテオン=ソルボンヌ校などと一緒くたに郊外の先端技術工場エリアに移設されようとしている。パリはまた広がり東京のような大都市となり、ひとびとが散歩をし、カフェで飲み、偶然の出逢いを創出のエネルギーとする力を失ってゆくのだろう。
 それでもフランスは、いまでも各種職能を守り、家具や内装を自分で直す古くささを守っている。米国型消費社会を経由して、日本ほど商品にあふれている社会はない。ものは増えれば増えるほど、ひとを窮屈にし、市民を欲望の塊に変えてしまう。カントが前提とした人間はもう可能でないのか。Ist es gut ?
(はら・ひろゆき 教師、哲学者)

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原宏之・著

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