生物と「文章表現」のあいだ/黒田龍之助

 高校三年生の初夏まで、国立大学を受験するつもりでいた。
 その頃は共通一次試験の時代で、五教科七科目が必修。そのためには苦手な理科も克服せねばと、選択科目で生物の授業を取ったのだが、これが絶望的にわからない。やっぱり国立は無理だと悟るまで、時間はかからなかった。とはいえ、いちど登録してしまった科目は取り消しができない。仕方なく、それでもサボることなく、毎週必ず出席していた。
 授業のはじめには、入試対策用の練習問題が、小テストとして配られる。やっぱりわからない。マークシートを適当に塗り潰したあとは、文字どおり手も足も出ないのである。当然ながら、時間を持て余してしまう。
 そこであるとき、余白に「生物とわたし」なる文章をいたずら書きしてみた。小学校一年生のとき、アサガオの芽が出なかったのを皮切りに、それに続く理科とのさまざまな不幸な出合いを、面白半分につづってみたのである。
 すると驚いたことに、生物のS先生はわたしの落書きにコメントを書き添えてくれた。さらに漢字の間違いやテニヲハなども訂正してある。最後に「面白い」という評価。
 嬉しかった。
 それ以来、生物の小テストは作文の時間となった。わたしは毎回、理科と絡めながらあれこれ勝手なエッセイを書き、S先生もそのつど律義にコメントをくれた。
 わたしの文章修業は、後にも先にもこれっきりである。
 それなのに結局、当時まだ珍しかった作文入試を導入していた私立R大学文学部に、ちゃっかり受かってしまった。
 挙句の果てに、二十数年後には『大学生からの文章表現』などというエラソーなタイトルの新書を、上梓してしまったのである。この厚かましさは、生物の小テスト中に作文を書いていた頃のずうずうしさに通じる。
 だいたい、わたしは国語の先生でもなければ、日本語の専門家でもない。外国語教師なのである。大学でロシア語や英語を教えたり、ときには言語学を担当したりするのが仕事なのだ。
 ところがあるとき、学生相手に「日本語表現のテクニック」という題目で文章講座をやってみたら、これがなかなか面白かった。そこでいつの日か、このときの楽しかった雰囲気を、一冊の本にまとめたいと、構想を温めていたのである。
 外国語教師による日本語文章論? いやいや、そんな立派なもんじゃない。
 もっと楽しい文を書いてよ。そんなメッセージにすぎない。
 それにしても、自分は高校生のときに文章をあれこれ練習していたのに、どうしてタイトルは「大学生からの」なのか。
 それは時代が違うからである。
 現代の大学受験では、小論文入試がすっかり定着してしまった。おかげで、合格のためのパターンを伝授するアヤシゲな対策本が山ほどある。まあ、入試という利害が絡んでいては仕方がないし、なにより受験を控えた高校生が、本書の影響を受けて不合格となっても責任は負えない(それでも、楽しい文にチャレンジしてくれる高校生は大歓迎である)。
 問題は大学生だ。受験の弊害なのか、入試が終わっても小論文風のつまらない文章を書く者が少なくない。これが困る。
 大学生になったら、さらには社会人になったら、入試のようなシガラミから離れて、のびのびと書いてほしい。エラソーで小賢しい小論文ではなく、もっと相手のことを考えた、楽しい文章を書いてほしい。本書にはそんな希望が込められている。
 そういえば、生物のテスト中に文を書くとき、目指したのはS先生に楽しんでもらうことだった。
 文章の究極の目標は読者を楽しませること?
 それはなんともいえないが、わたしは本書をまとめるにあたっても、読者が楽しんでくれればいいなあと願っていたことだけは、絶対に間違いないのである。
(くろだ・りゅうのすけ 語学教師)

『大学生からの文章表現 無難で退屈な日本語から卒業する』 詳細
黒田龍之介 著

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