国境という「壁」/柿崎一郎
『東南アジアを学ぼう――「メコン圏」入門』は、東南アジアのベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー及び中国の雲南省に設定された「メコン圏」についての入門書である。難しい話は極力省略したが、一つだけ書けばよかったと後悔していることがある。それは、国境という「壁」の話である。
本書の中でも何度も国境を越えたが、国境はまさに国と国を隔てる「壁」である。「壁」の向こう側には、別の国が広がっている。表記される言葉もがらりと変われば、使われている通貨も異なる。街の雰囲気も変わり、場合によっては時計の針も進めたり戻したりせねばならない。「壁」を越える際には、人やモノの移動が各々の名前や数量とともにそれぞれの国によって記録される。ヨーロッパなどでは、越えたかどうかも分からないような低い「壁」が増えており、アジアにおいても「壁」は着実に越えやすくなってきている。
低くなりつつある「壁」が人やモノの流動を増加させているのだが、「壁」というものがこの地域に出現してきたのは、実はそんなに古いことではない。十九世紀半ばに列強がこの地域に進出してくるまでは、そもそもこの地域には国境線という概念は存在していなかった。人口が少なかったこの地域では、支配の対象は長らく土地ではなく人であり、王国と王国の間の境界は非常に曖昧で、しかも頻繁に変動した。「壁」というものは、全く存在しなかったのである。地図上に線で示されるような「壁」が作られ始めたのは、列強が進出して自らの領域を明確な線で囲い始めてからであった。帝国主義の時代に、この地域に初めて明確な国境線なるものが出現し、領域国家によって分割されたのである。
そのような領域国家ができるまでは、人やモノは政治権力の枠組みにはそれほど影響を受けず、自由に往来していた。もちろん簡単に移動できる沿岸や河川に沿って主要な交通路が構築されてはいたが、基本的には多様な形で外港~後背地関係が形成されていた。しかし、領域国家が成立してからは、国家単位で交通網の整備が行われたことから、人やモノの動きも国家単位で再編されていった。つまり、外港~後背地関係が国家単位で構築されるように変えられていったのである。
新たに作られた「壁」は、当初はそれほど高くはなく、比較的自由に往来が可能であったが、第二次世界大戦後に独立した国民国家内の内紛や国家間の対立によって高くなっていった。外港~後背地関係は高い「壁」で取り囲まれた国単位にさらに再編され、人やモノの往来も各国民国家内で完結するものが中心となった。さらに、各国の政治体制や経済政策によって、それまではさほど格差が存在しなかったこの地域でも、国ごとに大きな経済レベルの差が生じ、不均衡な状況が生まれてきた。そして、第二次世界大戦後断続的に続いた戦火がやっと収まったことで、ようやくこの地域の「壁」の嵩上げに終止符が打たれ、「壁」は低くなり始めた。それに伴い、国境を越えた人やモノの往来が急増しているのが現状なのである。
そのように考えると、「メコン圏」というものは決して新しいものではなく、国境という「壁」ができる前の状況の復活という側面を持つことが分かるであろう。もちろん単なる復活ではなく、近代的な交通網によって迅速な往来が担保された、「新たな」復活である。過去百五十年くらいの間に徐々に「壁」が高まり、それぞれの「壁」の中で独自の「国民」を作り上げることに腐心していた国民国家が、ようやくその「壁」を低くする方向に動き始めたのである。「ベルリンの壁」のように、「壁」が完全になくなることはなかろうが、今後も着実にそれは低くなり、人やモノの往来はますます容易になるものと思われる。私がもっとも伝えたかったことは、このような「壁」の盛衰のプロセスではなかったのかと、今更ながら思うのである。
そして、日本が「メコン圏」から学ぶべきことは、いまだに何重にも張り巡らせているさまざまな高い「壁」を低くしていくことではなかろうか。
(かきざき・いちろう 横浜市立大学准教授)
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