東京裁判の埋もれた核心を知るために/牛村 圭

 ポツダム宣言に明示された「戦争犯罪人の処罰」を意図した東京裁判は、連合国による対日占領政策の一環として実施された。本来は政治史、国際関係史の一齣で終わるはずだったが、被告個人を訴追する過程で戦前戦中の日本の歴史をも法廷審理の俎上にのせ、日本近代史の解釈を結果として施したため、戦後日本の精神史上に大きな刻印を残すこととなった。閉廷から六十年を経ても、その有形無形の影響は今なお随所に看取できる。
 真摯に歴史に向きあい学ぼうとする時、一次史料は欠かせない。だが貴重な一次史料も、伝言ゲームの如くさまざまな書物を経て市井の読書人のもとに届くころには、過激で不要な形容語句が付され、一体どの部分が本来の記録なのか判然としないことが往々にして起こる。二番煎じの歴史書を眺めても、正確な歴史の再構築は難しい。
 東京裁判という史実を再構築するために不可欠な一次史料が、法廷速記録であることは言を俟たない。日本語版は一九六八年、英語版は一九八一年、それぞれ市販されるにいたった。所蔵する図書館は多いとは到底言えないが、必須の一次史料はとりあえず揃っている。その速記録に目を通し始めればたちまち、「検察側の異議を認めて弁護側提出の文書を却下します」という趣旨の裁判長の発言の多さに目がいく。検察側が立証段階で提出し受理された証拠を、新たな資料で反駁し検察側の訴追が当を得ていないことを立証するのが弁護側の使命だった。しかし、検察側が提出した文書に比して、弁護側が提出し証拠として受理を目した文書のほうが、圧倒的な割合で却下されたのである。
 したがって、貴重な一次史料とはいえ法廷速記録だけを読んでいては、被告弁護側すなわち日本の主張・大義の全容を掴むことは望めない。提出したが却下され証拠として採用されるにいたらなかったもの、あるいは提出を準備したものの法廷戦術上未提出に終わったもの、こういう表に出なかった資料にも目を通してはじめて、東京裁判という未曾有の国際軍事法廷で日本側が主張を企図したことの全てが見えてくることになる。却下された弁護側資料とは「法廷審理とは関係がないため」と検察側が異議を申し立て、判事団の裁定によって証拠採用にいたらなかった文書等である。だが法廷審理と無関係というが、その真相は、原告である連合国の戦争犯罪に触れるなど、端的に言って裁く側にとって不都合な真実が含まれていたから却下されたのに他ならなかった。
 こういう法廷事情を勘案するならば、法廷で却下された文書にこそ、日本の大義があるとさえ言ってもよい。こう書くと、戦前戦中の日本の大義と言っても所詮大東亜戦争肯定論の反復に過ぎないだろう、と思う向きもあろうがそれは的を射ていない。アジアへの共産主義の浸透・進出を米国大統領が危険視していたという内容を含む文書、あるいは大陸法で法整備を行なった近代日本にとり馴染みのない英米法の法廷だった東京裁判という国際舞台で、敵の論理である英米法を見事に駆使して反駁を試みた高柳賢三弁護人の弁護側冒頭陳述、さらに近代日本に足跡を残した言論人、徳富蘇峰の広義の「自伝」を含む宣誓口供書、といった力作が、却下文書のなかに含まれる。侵略戦争という検察側の指弾に対する感情的な自衛戦争論ゆえ採用されなかった、などと即断してしまうのは真摯な歴史学びに反するであろう。
 長らく法務省の倉庫に眠り日の目を見ることのなかった弁護側却下未提出資料は、平成初め、篤志家たちの尽力により国書刊行会から全八巻の資料集として刊行されるにいたった。この労作により東京裁判の法廷で日本側が掲げた大義の全貌をうかがい知ることができる。そのなかでとりわけ重要な文書を精選した一書が、書名と版元を改めちくま学芸文庫に加わる『東京裁判 幻の弁護側資料――却下された日本の弁明』である。東京裁判の埋もれた核心を知ろうという志を持つ江湖の読書人にお勧めしたい。
(うしむら・けい 国際日本文化研究センター教授)

『東京裁判幻の弁護側資料――却下された日本の弁明』 詳細
小堀桂一郎 編

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