辻原登で世界文学史を読む/刈谷政則

 辻原登は現代最高の〈物語作者〉である。十九世紀小説の物語性を十分に湛えながら二十世紀以降のモダニズム文学の成果を自在に操る。まことに稀有な存在といわなければならない。だと思うなら彼の作品にじかにあたってほしい。今なら『韃靼の馬』(日本経済新聞出版社)という長大な「時代小説」が書店に並んでいる。「時代小説」(なにしろ舞台は江戸時代)の顔をした現代小説であり世界文学でもある。
 さて、この本『熊野でプルーストを読む』である。もちろん小説ではない。しかし、単なるエッセー集でもない。では何か?
 具体的な中身にあたってみよう。
「サウダーデのまなざし」という文章がある。鏑木清方の「築地明石町」という絵から話は始まる。そして永井荷風「深川の唄」と樋口一葉「たけくらべ」をスケッチして肖像画の傑作「三遊亭円朝像」へ、さらに話題は円朝その人に及ぶ。仕掛けはまだある。清方を讃える一方で、「築地明石町」という絵に触発されて書かれた自作『発熱』(傑作!)、「円朝像」に導かれるようにして生れた『円朝芝居噺 夫婦幽霊』(これまた傑作!)を二重写しのように描く(決して自己宣伝ではないことに留意)。背後には「サウダーデ」というポルトガル語が通奏低音のように流れる。「心象の中に、風景の中に誰か大切な人が、物がない。不在が、淋しさと憧れ、悲しみをかきたてる。と同時にそれが喜びともなる」。まるで〈物語〉のようなエッセー。
 この作家の書くエッセーは一筋縄ではいかない。あちこちに仕掛けられた二重三重の企みを味わうように読まなければならない。
「私の黒髪遍歴」は格好の見本かもしれない。大岡昇平の「黒髪」という短篇小説から語り始め、同じ大岡の「近松秋江『黒髪』」という論考を経て、秋江の「黒髪」三部作(いや四部作?)の探求へと〈物語〉は進む。それだけではない。この題材はこの本の中で何度も巧妙に繰り返される。そして、秋江、大岡の「黒髪」に自作の短篇「黒髪」を加えて、新たな「黒髪」三部作を空想する。
 さりげなくさし出された話題が、みるみるうちにつながり、大きな文学史の見取図になる。これこそがこの本の魅力の最大のものだ。
 集中随一の名篇、「一葉、柳浪、鏡花、荷風。あるいは、美登利、吉里、菊枝、お糸。」を読んでいただきたい。
「一葉が象形した美登利が、柳浪の吉里へ、鏡花の菊枝へと転生する。彼女たちはいずれも隅田川水辺へ、あるいは水中へと惹き寄せられた」
 溜息が出るような魅惑の文学史。
 あるいは、「朗読で再発見する宝物」という一篇。ここでは、エンマ・ボヴァリーの柄付眼鏡がアンナ・カレーニナへ譲渡され、アンナから『犬を連れた婦人』のもうひとりのアンナへとリレーされたのち、彼女がヤルタの波止場で失くしてしまったのを、さる人物が拾って、いま僕の手元にある――という奇跡が語られる(この柄付眼鏡は、辻原登の代表作『許されざる者』のなかで印象的なエピソードとして登場する)。
 世界文学と日本文学が見事につながる驚きの文学史。
 辻原讃、加えてあとふたつ。
 まず「要約」の見事さ。「『闇の歯車』――藤沢周平の語りの妙」をぜひご賞味あれ。小説の批評の根幹にはまず「要約」がある、というお手本のような一本。
 次に、「あやまる父、怒る父」に代表される巧緻を極めた自伝的風景。単なる身辺雑記を軽々と超えて心に沁みる。
 辻原狂を自任していたのに、本書の大半は未読のものだった。ちくま文庫オリジナル! さまざまな媒体に発表され、長短もまちまちなのに、ここにはたしかに〈物語作者〉がいる。
「つまり、書物とは人生なのだ。われわれの人生の底を流れるのは悲しみであり、死であり、それを味わうことなくして、喜びも幸福もありえない」
(かりや・まさのり 編集者)

『熊野でプルーストを読む』 詳細
辻原登 著

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