福澤の目を借りて見る幕末維新期/山本博文
福澤諭吉が旧幕府時代の中津藩について書いた『旧藩情』は、江戸時代を研究する者にとっては必読文献のひとつである。封建制度を親の仇とした福澤の言葉通り、上級武士と下級武士があたかも人種が違うかのように差別されている様子が活写されている。
しかし、丹念に読んでいくと、それほど大きな身分差があったとするにもかかわらず、福澤の属した中津藩では、下級武士が専門の職人顔負けの内職で資金を蓄え、中には船を仕立てて大坂との交易に乗り出していたことなども書かれている。私たちが固定観念としてもっている江戸時代像の裏に、思いもよらない社会状況が存在していたのである。彼自身も、下級藩士出身であるにもかかわらず、大坂に出て緒方洪庵の塾でオランダ語を学び、蘭学者のネットワークを通じて咸臨丸に乗船し、アメリカに渡っている。江戸時代は、能力と意欲のある者には、上に昇る道が開かれた社会でもあったのである。
政府に仕官するだけが人生ではなく、実業の世界に活躍の場が開けていると若者に説く『士人処世論』にも、同様の発見がある。たとえば、よく「官尊民卑」と言われるが、実際には官吏が船や汽車の二等に乗り、商人や農民が一等に乗っていたことが、普通に書かれている。「官尊」は、ただ観念的な身分意識にすぎない面もあったのである。このように、この評論には、我々の固定的な観念を相対化する事実の紹介が詰まっている。
福澤は、自分でも言っているように、幕末維新の動乱に傍観者として社会を眺めていた。しかし、その福澤にも、意外に強い武士的な観念があった。それをよく示すのが、『我慢の説』である。
もと幕臣でありながら新政府に出仕し高官にのぼった勝海舟と榎本武揚に対し、福澤は痛烈な批判を浴びせている。勝に対しては、恭順を主張して旧幕府の幕引き役を演じた以上、自身は立身すべきではないと批判し、榎本に対しては、五稜郭でともに戦い、死んでいった仲間に対してどう思うのかという疑問を投げかけている。とは言え、福澤の目的は、彼らを非難するところにはなく、二人の名を惜しむ故に政府の役職から身を引くよう勧告するというスタンスのものである。
筆者が意外に思ったのは、幕臣でもない福澤が、徳川家びいきの立場からこれを書いていることである。中津藩奥平家は徳川家譜代の大名であり、中津藩士だった福澤は、譜代である以上あくまで主家である徳川家に殉ずるべきだと考えていたのだろう。封建制度を批判する福澤だが、主家への忠義を重視し、それを日本国への忠義に読み替え、国を存続させるための根幹になる道徳として擁護しているのを見ると、福澤にも、武士的な倫理観が強く保持されていたことを見ることができる。
一方で福澤は、西南戦争を起こした西郷隆盛を擁護する『明治十年丁丑公論』を書いている。この評論は、政府の弾圧を考慮してしばらく発表されなかったが、福澤の政治観がよくわかる文章である。内容的には日本における人民の抵抗権を主張したものだから、福澤の考えに沿ったものであるが、武力で政府批判を行おうとした西郷ら私学校党の動きを擁護するのは不思議である。政府を批判するなら言論をもって行うべきで、福澤もそう主張しているにもかかわらず、西郷に対する見方は非常に同情的である。
おそらく福澤は、旧幕府を倒して新政府を樹立し、廃藩置県を断行して封建制度を廃絶させた西郷を、心の底から尊敬していたのだろう。西郷を生かして後日国のために働いてもらいたいという趣旨からは、福澤の西郷への思いが伝わってくる。
今回、筆者が現代語訳した四編の評論は、福澤の思想を知るためには勿論のこと、幕末維新期の社会を知る上で不可欠のものである。是非、味読していただきたいと思う。
(やまもと・ひろふみ 東京大学大学院教授)
『現代語訳 福澤諭吉 幕末・維新論集』 詳細
福澤諭吉著 山本博文訳
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