鈴木大拙の再評価に向けて/末木文美士

 鈴木大拙というと、「禅の大家」とか「世界の禅者」という評価が定まっていて、批判が許されない崇拝対象のように扱われてきた。以前、大拙にも批判すべき点があるという内容の講演をしたところ、聴講者の一人が、「あなたは大拙ほどの悟りを得ているのか」と、色をなして質問してきたのに驚いたことがあった。
 その中で、ブライアン・ヴィクトリア『禅と戦争』(一九九七年、邦訳二〇〇一年)が、大拙の戦争責任を追及したことは大きな衝撃を与え、今でもまだその延長線上の論争が続いている。しかし、その頃からようやく大拙に対する見方が変わってきた。時代を超越して悟りを開いた絶対的な禅者ではなく、時代の中でさまざまに変転し、弱みも悩みもある人間的な思想家として見直そうという方向が、少しずつ定着しつつある。僕自身もその方向に向かって、多少の努力をしてきたつもりだ。
 今回、守屋友江氏によって編集されたアンソロジーは、まさしくそのような方向を決定付ける画期的な意味を持っている。「禅の大家」的なステレオタイプの大拙観を持っている読者が本書を開くと、あまりにその先入観と違いすぎて面食らうであろう。ここには、禅の文献や体験に関する研究や説法の類はあまり採られていない。その代わりに、時代の中で積極的に発言する知識人としての大拙の姿がありありと浮かび上がる。
 ここに収録された文章は、二十代の一八九七年から一九六六年に九十五歳で亡くなるまで、じつに七十年に及び、日清戦争後からベトナム戦争まで、激動の日本の近代史のほぼすべてをカバーする。本書はその間の大拙の言説を、在米時代(一八九七~一九〇八年)、帰国後(一九〇九~二〇年)、京都時代(一九二一~三〇年)、十五年戦争期(一九三一~四五年)、敗戦後(一九四五~六六年)の五期に分けて収録している。
 それだけ長期にわたるから、当然その間の言説には大きな変化がある。とりわけ本書は、戦争と平和に関する言説を多く集めているところが注目される。大拙は平和主義を強力に主張することもあれば、戦争を是認する言説もあり、その観点は揺れている。大拙には日和見的な面がないわけではなく、時代の動向にかなり左右されている。しかし、その底には禅の根本問題は戦争か平和かということではなく、人の心が問題だ、という見方がある(「禅と戦争」)。それに加えて、しばしば「Aは非Aである」と定式化されるように、Aであっても非Aであってもよいとする論理が、いわば融通無礙的に使われることによる分かりにくさもある。守屋氏の解説は、それを「中間底」の問題として提示している。ここに収録された各時期の戦争・平和観を追うだけでも、いろいろな問題が出てきそうである。
 全体を通読して、いちばん興味深く読んだのは、在米時代と十五年戦争期である。前者は大拙の青年期に当たり、はじめてアメリカという異文化に触れ、大きな衝撃の中で日本を相対化し、遅れた日本の状況へ批判的な目を向けるところから出発している。その中で、大拙は天皇崇拝や教育勅語を批判し、社会主義に共感を示している。しかし、やがて日露戦争に到ると、熱烈な愛国主義的感情を吐露するようになる(「米国片田舎だより」)。その振幅に、大拙を解く一つの鍵がありそうだ。
 十五年戦争下では、そのリベラルな信条と広い世界への視野により、早くから戦争に危機感を抱きながらも、戦争に巻き込まれていく屈折した展開が、緊張感をもって示されている。「大乗仏教の世界的使命」の一篇は、その中でもプラス・マイナス両面を含めて、大拙の一つの代表作とも言えるほどの力作である。島国的な民族主義に閉ざされることを批判し、日本の仏教を世界的な視野で見ようとしながら、それ故にかえって「世界思想戦」として、戦争を肯定してしまう重層的な構造が見られる。
 本書は、大拙に対する従来の見方を一変させるばかりでなく、一人の知識人の言説の変転を通して、日本の近代史をもう一度考え直させる点で、大拙研究者に限らず、近代史、近代思想史に関心を持つ読者に広く読んでもらいたい一書である。
(すえき・ふみひこ 国際日本文化研究センター教授)

『禅に生きる――鈴木大拙コレクション』 詳細
鈴木大拙著 守屋友江編訳

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