ルビの喜悦、日本語の豊饒/東雅夫

快挙である。
 近年、いつのまにやら店頭から流布本が姿を消して淋しい思いをしていた柴田天馬訳『聊斎志異』のリバイバルを言祝ぐ気持ちはもちろんだが、解説を担当しているのが畏友・南條竹則であるのも、正鵠を射たチョイスと云わざるをえない。
 果たして、この解説、その名のとおり天馬空を翔くが如き奔放闊達な天馬訳の特色と魅力を、十全に説き明かして余すところがない。特に「発音ルビ」(「心中」に「しんじゅう」とルビを振る類)と「意味ルビ」(「縹緻」に「きりょう」とルビを振る類)に加えて、独創的な「故事ルビ」(『詩経』に見える「交謫」の語を敢えて訳文にも残して「こごと」とルビを振る類)の重要性を指摘することで、天馬訳の奥行きを示したあたり、英国文学の翻訳家にして中華ファンタジーの創作をも手がける解説者ならではの着眼と申せよう。
 さるにても、今回はじめて復刊される運びとなった玄文社版『和訳 聊斎志異』(初版は一九一九年刊行)は、天馬こと柴田一郎が、満州に渡って『聊斎志異』と出逢い、その幽艶玄妙な魅力の虜となり翻訳に着手、現地の邦字新聞に連載した分をまとめて出版した記念すべき最初の翻訳書である。当時ジャーナリストとして活動していた天馬は、同書に瞠目した第一書房社主・長谷川巳之吉の勧めで『聊斎志異』の全訳に着手、日中戦争の動乱に翻弄されながらも翻訳を続け、戦後、創元社から全訳版を刊行(一九五一~五二)、毎日出版文化賞を受賞した。
 実は戦後の全訳版(創元社→角川文庫)と玄文社版とでは、訳文にかなりの異同がある。論より証拠、国木田独歩や太宰治による翻案(ちくま文庫版『文豪怪談傑作選 太宰治集』には、太宰の「竹青」と田中貢太郎訳の原典が併録されているので、関心ある向きは御参照いただきたい)でも名高い、集中の一篇「竹青」の一節を、並べて引用してみよう。

「お別れもうして来無恙乎」
 と曰った。魚が驚いて問ねると、
「君、竹青を不識耶」(玄文社版)

「お別れしてから、ご無事ですか」
 と言った。魚が、驚いて、たずねると、
「あなた、竹青を知らないの」(角川文庫版)

 いかがであろう。玄文社版の独創性もしくは過激さが、一目瞭然ではあるまいか。
 戦後版が、平易な仮名表記に改められた一因としては、終戦直後から始まったお上による国語改革の影響も少なくないと忖度される。翻訳家として柴田天馬とも相通ずるところの多い、英米怪奇小説翻訳の名匠・平井呈一による小泉八雲の翻訳についても、戦前版と戦後版で似たような傾向が認められるからだ(たとえば岩波文庫『怪談』の新旧両版を参照)。
 漢字全廃(!)を最終目的にしていたというこの文教政策が、愚挙の極みであったことは、本書に躍如たる日本語の豊饒――読むことの愉悦を、驚歎の念とともに味わわせてくれる文体の魅力が、なにより雄弁に実証するところだろう。
 すでに拙著『怪談文芸ハンドブック』でも言及しているので詳述は避けるが、近年、若い世代から熱い注目を浴びている日本の怪談文芸にも『聊斎志異』の影響は甚大である。
 地方文人として、地域に根づいた伝承を多年にわたり蒐集し、達意の作品に結実させた作者・蒲松齢は、現代日本の怪談作家たちにとっても今こそ仰ぎ見るべき先達のひとりと云えよう。
 本書によって、聊斎癖(当世風に云えば「聊斎マニア」か)に取り憑かれ、ひいては和漢の怪談文芸の底深い魅力に開眼する新世代の読者が輩出することを、大いに期待したいと思う。
(ひがし・まさお 文芸評論家)

『和訳 聊斎志異』詳細
蒲松齢著 柴田天馬訳

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